確かにやむにやまれぬ嘘というものがある。
だから嘘自体を全否定する気はないがしかし、日常において嘘は心苦しく露見すれば目も当てられず、そうでなくても心落ち着かない。
平穏無事で心安らかな暮らしと嘘との相性は良くないと思うので、親としては子に「嘘は良くない、心を蝕むから」と教えることになる。
子らには幸福になってもらいたい。
だから、子らが嘘つきに身をやつすことほど親として胸の痛むことはないだろう。
しかし今日も明日も嘘つきはわんさ湧いて出て跳梁跋扈し、身近なところでも常習者を目にすることになる。
平気平然と嘘で身を飾ってその気になってなりきってという姿を目の当たりにしてしまうと、怖気覚えるような生臭さをその根に感じ暗澹となる。
何かの薬物同様、一度味をしめるとやめられないということなのだろうか。
しかも薬と違って嘘はタダ。
嘘を資源とすれば手軽安上がりにどんな人間にだってなれるから気分だけを味わうのであれば理に適っていると言えなくもない。
誰にも迷惑をかけてない。
薬物中毒者同様にそう思えば、歯止め外れ虚実が垣根なく入り混じり、債務で予算が構成される日本財政みたいに主客入れ替わってベースに虚がありそこに幾ばくかの実が点在するという在り様になっていく。
今が良ければ全て良し。
子が親を真似て小嘘つきになっても後は野となれ山となれと常習者は思うのであろうからその点もまた日本財政の話を彷彿とさせる。
で、そこまで考えて、何であれブーメラン。
わたしだって嘘をつかないと言えば嘘になる。
ラーメンを食べたのに蕎麦を食べたと家内に報告した例は枚挙に暇がない。
それで心に咎を覚えたこともない。
もしラーメンが違法となって、ふとした弾みで蕎麦ではなくラーメンを食べたことが明るみとなって当局に連行されれば尋問の際に言うのだろう。
誰にも迷惑をかけていない。
しかし、事がそこまで及べばそれで済まされる話ではない。
まさかラーメンを食べていたなんて、家内は声をあげて泣き、俺のパパがラーメンなど食べる訳がない、子らは友だちに殴りかかり、優しい息子だったのにと親はただただ打ちひしがれる。
人のふり見て我がふり直せで善は急げ。
つまらない嘘をつくのはもうやめようと思う。

