互いが互いのブレーキ役を担っている。
最近つくづくそう感じるようになった。
例えば目を離すとわたしはどこへなり店に入って際限なく食べて飲むが家内がいると人並みで収まる。
一方、家内は子らにおいしいものを食べさせたいとの思いで熱心に食材を吟味し際限なく料理を作るがわたしがほどほどでと言うものだからそこそこの分量で収まる。
わたしの「食べる煩悩」と家内の「子に良いものを食べさせたいという母性」のエスカレートが夫婦という相互監視システムのもと制御され、それで暮らしの秩序が保たれる。
ブレーキ役の他、見方を変えればアクセル役も担い合っていると言えるかもしれない。
思いつくのは早起き。
家族揃って早起き一家となったのは、卵が先か鶏が先かといった喩えのごとく、わたしと家内がどちらともなく早起きで、先を競うように早起きだったからだろう。
それで子らも早起きになって、だからうちでは早起きが人の営みとして当たり前のこととして定着した。
そういったブレーキやアクセルによる相互作用が家族皆に益をもたらす、そう考えていいだろう。
だからもし、互いが互いのブレーキとアクセルを踏み誤ったり、ブレーキとアクセルの役を適切に果たせなくなったら、悪しきことが草ぼうぼうといった様に至って、事は良い方に向かわないにちがいない。
草ぼうぼうというバランス欠いた過剰がひとつのサイン。
過食であれ散財であれ豪遊であれ虚飾であれ家事放棄であれ、それら兆候はおそらく幸福には端を発しないし、頑張り過ぎや尽くし過ぎといったことは幸福にはつながらない。
放っておかれれば誰だって秩序を失いかねない。
誰かがブレーキを踏み、良い方向へとアクセルを踏んであげねばならない。
そのために家庭があるのだと、最近思えるようになってきた。

