誰かを悪く言うような話をすると空気が淀んで心が汚れる。
換気口が塞がって排気口の蓋が開き、疎ましいものを浴びてまみれて悪感情が嵩じてしまう訳であるから衛生上好ましくない。
実際のところは悪と謗られるほどでもない相手に対し極悪の烙印を押しエスカレートすればその破滅を願うようなことになるのだから、こうなると悪が逆転してしまったも同然で、悪趣味にもほどがあるという話だろう。
だから会話がそのスイッチを押してしまいそうなときには、互いに気をつけ合ってさっさと話題を変えよう。
そんな話を家内としつつ、チーズをつまみにワインを注ぎ合う。
誰かを悪く言うより許そうと思う方が、たいていの場合、気が晴れる。
相手の事情を拒絶するからその心のこわばりが悪感情を生むのであって、理解しようとすればまあ人それぞれいろいろたいへんという真実に行き当たる。
つまりは、共感。
認知の次元をあげれば、悪く言う理由自体が消え失せる。
そんな結論に達したとき、長男からメッセージが届いた。
ちょうどいま従姉妹と後楽園で焼肉を食べているとのことである。
添えられた写真にしばし見入って、今度はこちらから二男の試合の写真をわんさと送った。
長男からすぐ二男を賛辞する声が届いた。
息子が二人いる。
子らを想うとき、心は喜びに満ちて澄み渡っている。
それを自ら進んで汚すなど、バチあたりなことだろう。
自らのためにも子らのためにも、心はきれいに保たれるべきであるに違いない。