家内とそのママ友らと合流し学校を訪れた。
教頭先生や部活顧問の先生との面談を終え、練習を見学していくという家内らと別れ、ひとり先に帰宅した。
家内を待つ間、録画してあった『SKYキャッスル』10話を見ることにした。
出自を偽っていた主婦の嘘がとうとう暴かれた。
シドニー大学など出ておらず父も銀行家などではない。
彼女は飲んだくれの精肉屋の娘で、かつて牛の血を売って生計を成り立たせていたのだった。
過去を知る高校の同級生が、セレブばかりが集う場でその正体を暴いてみせた。
潮が引くようにハイソな者らは彼女から離れ、話を伝え聞いた者らは高笑いし、なかには身を捩って嘲り笑う者もいた。
身も蓋もないようなリアリズムが韓国ドラマの持ち味で、日本のドラマではここまで感情露出が過多な演出は見られない。
泣いて喚いて声を荒げといったシーンが随所で見せ場となる。
それが臭くないので、彼の地の俳優陣の演技力は相当なものである。
そしてそれら見せ場で人の本質が浮き彫りとなってリアリティがあるから引き込まれ、娯楽であっても学びは大きい。
根底にあるのは韓国の見映え至上主義。
外見を飾り、だから整形も当たり前で、学歴や経歴なども「見映え」の要素から切り離せない。
だからドラマを通じ国民性の未成熟があらわになっているとも言えるのであるが、翻って見れば日本も似たようなものであり五十歩百歩。
ブランドもののカバンや外車を崇めてそれをステータスとして捉え、同じ延長線上に学歴や職業までも位置づけて、人を上に見たり下に見たりする。
そのような人々は韓国だけでなく日本にだって山ほどもいる。
常に誰かと比較しての話となるから終わりのないシーソーゲームのようなものであり、自身が上がれば心地よく下がれば平静ではいられず、誰かが上がれば癪に障り誰かが下がれば心が華やぐ。
だからドラマに見られたように、ハイソのトップが天から地へと転落すれば、皆が腹を抱えて、足をばたつかせて大笑いすることになる。
一歩離れた外側から見ればそれが奇行と思えるが、一歩間違えればそこに組み込まれ、人の不幸を哄笑する下劣な者になってしまいかねない。
自身の本質と縁もゆかりもない、つまり、つまらないもので自らを価値づけようとするから、心許なくて比較が始まる。
実に人間らしいとは言え、なんと不自由で、不健全なことだろう。
自身が唯一無二であると知る。
その理解を深める道筋のなかでこそ価値が見出され、等価なものを宿す者として他者への尊重も生まれるのではないだろうか。
何をしようが他人にはなれない。
誰であれ、シーソーには近寄らず自身の足元にどっかと鎮座することからはじめるべきなのであろう。

