水曜夕刻、ジムを終え家内の顔が浮かない。
ここ数日、二男がほとんど勉強していない。
先輩の卒業式の際は当日だけでなく前日も皆で一緒に夜まで過ごし、先日の試合の際も当日だけでなく翌日も友人らと過ごした。
勉強に関し長男の学校に比べてゆるく、つまり他校の生徒がフルスロットルの勢いで疾駆し始めているときにこんな様子で大丈夫なのか。
母という種族は放っておけば、心配をよすがとし、呼吸するみたいに心配し、心配と寝起きをともにし始めるからそのループに入り始めたときには誰かが勢いよくその心配を吹き飛ばさなければならない。
こと勉強に関しては、ねじり鉢巻で遮二無二に頑張る者が必ずしも優位に立つわけではない。
むしろ緩急つけて要領よく立ち回ろうとする者の方がはるかにゲイン大きいということだって十分あり得る。
虚像と比較して心許なくなってしまうより先、第一にどんな息子であって欲しいのかを考え、そのイメージに即して心配ならそのときはじめて心置きなく心配すればいいのではないだろうか。
愛するスポーツに出合って部活に励み、勉強をさぼることなく仲間ともきちんと付き合い、彼なり充実した青春の日々を過ごしている。
親として、それで十分誇らしい。
そもそも毎夜毎夜の思い出劇場、子らに関し夫婦間で交わすトピックのなか勉強の出る幕などほとんどない。
長男についてはラグビーの試合で見せたガッツや学祭でのダンスや歌いっぷりや司会ぶり、二男については部活でのスティックさばきやステップ、バンカラな態度や物腰、加えてそれぞれの幼い頃の面影などが主題であり、つまり、そういったこと以外は視野の外、たいして気にも留めていないということである。
たまに勉強しない日があったからといって家でゴロゴロしている訳ではなく、より大事な時間を過ごしているのであるから見咎めることなど何もない。
つまり気を揉む問題など現状何一つないということであるから、さあ、飲もう。
このようにして心配の芽は正しく摘まれ、パッと明るい家内の笑顔が舞い戻った。