朝一で魚屋に寄って得た収穫が大だったと家内が言う。
大将一押しの品が夕飯の食卓に並んだ。
バイ貝の煮付けとアジの塩焼きを酒のあてにし交互に味わう。
確かに美味しい。
が、分量が足りない。
要望すると、息子のために作った特製ハンバーグを家内がおまけしてくれた。
そのように晩酌の時間を過ごしながら、iPhoneの画像をテレビ画面にミラーリングし家内と眺める。
すべての画像に思い出が詰まっているから、どのシーンからでも話が広がっていく。
過去へと遡り、息子の試合の動画になったとき、家内がほんの少しだけため息をついた。
大会に向け頑張ってきたのに、開催可能性は無きに等しい。
なんと無念なことだろう。
息子の胸中を思えば、家内の気持ちが萎むのも無理はない。
ニュースの時間になったのでチャンネルをNHKに変えた。
緊急事態宣言の対象地域が全国に拡大される。
それがトップニュースだった。
事態は深刻の度を増している。
ニュースの文脈はそれで一貫しているが、実感との齟齬は否めない。
身の回りの日常が激変した訳でもなく、バタバタと人が病に倒れている風にも思えない。
しかし、世界を見渡せば油断は禁物。
だからものの道理として楽観論は脇に置き、まずは最悪の事態を想定し物事を考えねばならないということなのだろう。
最悪の事態を身に引き寄せて考えてみる。
そこにフォーカスすれば、ふわっとしたような価値のまだらがたちまちのうち明瞭かつ整然としたものになる。
大事な事柄だけがぐっと迫って浮き彫りとなり、部活の試合の消滅のことなど遠景に遠ざかる。
そう言えば、とこの夜はわたしの方が家内より饒舌。
最悪の事態と言えばカミュの『ペスト』が示唆に富む。
オランの街にはタルーがいてリウーがいた。
ともにペストに立ち向かう。
両者、そもそもは性質を異にする人物であったが、ペストが二人のうちに潜む共通因子を引き出した。
それで括られ、二人は強固な連帯感で結ばれた。
名著は読んだ心にくっきりと痕跡を残す。
読んだのは何十年も前なのに至るところが鮮明。
特にタルーの最期の場面。
ペストに罹患し、タルーは絶命のときを迎える。
看取るのはリウーの母。
じんと胸に迫る場面であったが、タルーを看取る場にリウーが不在であったことが残念でならなかった。
自身のなかの良き因子を間近に感じることができるのであれば、最期に際し救われる。
そう感じたからだった。
タルーもリウーも最悪の事態に置かれて、一貫して真摯であり誠実でありそして明晰だった。
人というものの内に宿る良きもの、強いものが二人の人物に投影されて、だから読むうち、自身のなかにも微弱ながら存在するのかもしれない良きもの強いものがそれに呼応し共感が生まれ、オランだけでなくこの世にはあまたタルーがいてリウーがいるのだという気づきに至った。
いままさに、タルーやリウーを間近に感じるような事態が訪れているのかもしれない。
そうであれば、はるかに及ばずとも誰であれ口を真一文字にして真剣に立ち向かわねばならないということになる。
でも、まさか。
日常のフレームは分厚く頑丈。
非常事態はやがてまもなく平時の懐に包み込まれて、跡形もなく消え去っていく。
最悪の事態など空想の産物で杞憂に終わるに違いなく、そうなれば、どれだけいいだろう。