早朝出かけて夜も遅くなる。
朝と昼は手近な店で済ませ、夜はコンビニで買ったものを事務所で食べる。
土日もそうであるから、ちょっとした単身赴任のようなものである。
仕事を終え、コンビニで買ったビールを飲みつつそう思う。
たった数日こんな暮らしが続いただけで、家族と疎遠になったように感じられる。
ということはつまり、これまでが「近すぎた」ということなのかもしれない。
せっかくの家族なのであるから、できる限り同じ場所で同じ時間を過ごしたい。
そうも思うが、あまりに近いのも良し悪しなのではないだろうか。
近いことに慣れすぎると、急遽遠くなったときの喪失感は果てしなく、胸に穴空く脱力を抑えようがない。
もし適度に遠く、自然な感じで疎遠になれば、日頃想うこともなく端役も同然。
いなくなっても、さして心の運営に支障を来すことはないだろう。
家族で住む家を買ってすぐ僻地勤務を命じられた人がいる。
以来、数年ごとに僻地を転々とし、家で家族と過ごすのは盆と正月のみ。
自分にあてはめて考えてみる。
妻子が可愛い盛りに離れて暮らし、会うのは時々だけ。
気づけば子らは長じて大学生になった。
子らがぐんぐん育つ一番いい時期である。
また、妻と力を合わせる人生のクライマックスの時期とも言える。
そんな大事な時期に、仲を引き裂かれるようなものであるから、辞令というのはなんと非人間的なものなのだろう。
憤りさえ覚えるが、視点を考えれば、これも良し悪しだという気がしてくる。
要するに、いま寂しいか、後で寂しいかの違いだけ。
離れて暮せばそのときは寂しいが、次第に慣れて一生の別れに際し、潔い思いで相手を見送ることができるのではないだろうか。
もしこれが逆だと、寂しさが一気に許容量を越え、辛く苦しく耐えようがないということになる。
人が噛み締めるべき寂しさの総量は不変。
そうだとすれば、小出しで寂しいほうが、一気に寂しいよりマシではないか。
そのように、ひとり職場でビールを飲んで、単身赴任的な暮らしのメリットについて思い巡らせ、酔いがまわった頃、自らの考え違いに思い至った。
寂しさこそが人生で、それを避ければ人生自体が薄っぺらなものになりかねない。
その人とある時期ある場所で一緒に生きたというありありとした記憶は、寂しいという思いの中にしか格納されない。
そう思えば、半世紀も生きてわたしにはいま寂しさが圧倒的に足りてない。
おまえがいないと寂しい。
その総量が尽きるくらいの勢いで、日頃から目一杯、寂しさを喚起する。
そうしてこそ人との付き合いが完全なものになる。
そして寂しさが尽きたとき、その出会いが奇跡であってかつ必然であったと知ることになる。
このとき、寂しさが一周まわって感謝と感動に至る。
事務所でひとり酔ってそう確信し、飲むほどにその確信はただただ強くなっていった。