何やかやと忙しく土日も仕事で潰えるが、元々はそんな過ごし方が標準だった。
あちこち出かけて遊び回ってもただそれだけのこと。
この歳になれば無為に遊ぶより求めに応じて仕事する方が、命の用途としてはるかに適切と言えるだろう。
そしてその分、家内が余白の時間を満喫できるので巡り巡ってわたしも嬉しい。
夫婦揃って必死のパッチということになれば相乗的に消耗し、その悪循環を思うだけで気が滅入って耐え難い。
わたしが仕事で充実し、家内は暮らしの実質を整えそこに幸福を感じる。
こんな良き循環に到達するまでの道のりは思えば結構長かった。
「若い頃にこんなのを見ていたら、落ち込んでいたかもしれない」
以前、家内がそう言った。
華やかさがてんこ盛りといった誰かのインスタ画像を眺めてのことだった。
結婚当初、わたしは駆け出しの自営業者で、次々と授かった坊主らは目を離せばどこへでも駆け出していくやんちゃ坊主だった。
実入りは些少で、その一方、必要とするエネルギーは多大であった。
もしそんなとき、優雅極まりない誰かのリア充を見せつけられたら、若き家内はうっかりその自尊の釣り針にかかってしまったかもしれない。
そうなれば思う壺。
これ見よがしな場面場面に、傷つき煽られ焚き付けられ、感情乱されること避けられなかっただろう。
幸いにして当時、誰かの自尊がいまほど手軽に出回っておらず、そんなものに関わる暇もなかったせいで、これ見よがしが家内の目に触れることはなかった。
家内は気を逸らされることなく、全力投球しなければならない現実と取っ組み合い、無事、人生の吊橋時代を渡りきることができた。
だから、うちの暮らしには内実が伴っている。
見せるがための、外観だけで良しとするような浅薄と無縁であるのは、暮らし各所のディテールを見れば一目瞭然。
一枚めくれば、ウソだらけ。
外観にのみ総力を結集した虚飾の舞台裏には、粗雑と貧相が吹き溜まっていて見るも無残。
行き着く先がそちら側の家庭にならず、ほんとうに良かった。