その昔、足繁くプールに通っていた。
仕事を終えて泳ぐだけでなく、通勤バッグに水着を忍ばせ出先にプールがあれば水に入っていたので、プールに耽溺しているも同然と言ってよかった。
当時は思った。
この世からプールがなくなってしまうとどうなるのだろう。
もし何かの行きがかりでプールのない国で暮らすことになったら。
そうなれば何を頼りに生きていけばいいのだ、といった不安さえ覚えたのであるから、依存症のステージはかなり進行していたとみていい。
それくらい人生と分かち難く結びついていたはずのプールであったが、家を越してからたちまち疎遠になった。
当初はクルマで通うなどあの手この手を使って工夫をし、子らの水泳教室に乗じて泳ぐということもした。
しかし、やがては自然な流れに落ち着いて、通わないという型に不可逆的に収まっていった。
プールがなければ困る。
そう思っていたが、結局、困ったことは何も生じなかった。
今では暇があっても面倒だから行こうとは思わないし、プールの近くを通りかかっても食指は一切動かない。
この日の仕事後、コンビニで仕入れた惣菜をつまみにビールを飲んで、ビールが引き金となってプールの記憶が呼び起こされた。
実はビールも同様。
20代の頃からお酒と言えばビールであり、ビールのない世界など考えられなかった。
なんでこんなにうまいのだ。
ビールがあるから人生を歩いてゆける。
それくらいの比重を占める存在だった。
だから、ビールのない大昔に生きることを想像しては不安を覚えた。
仕事後、一体何を流し込んで喉を潤わせればいいのか。
喉の乾きに気持ちが荒む様を思い浮かべて震え上がった。
それほどのビールラバーであったのに、今ではほとんどビールを飲まなくなった。
だから大昔に舞い戻る想像をしても、安心立命は揺らがない。
ここ最近、夜をコンビニ飯でしのぐからたまたま先祖返りしてビールを飲んだ。
それでビールへの過去の愛を懐かしむことになったのだった。
世に絶対的なものなど何も存在せず、すべては移ろう。
プールとビールで身をもってわたしは諸行無常を学んだと言えるだろう。