仕事で明石に通ってかれこれ8年になる。
最近は明石の先にも行く用事ができ、何やかやと通ううちすでに3年の月日が経過した。
8年も3年も長短の差はなく、いずれもあっという間。
もしわたしが不出来な男であれば、とうの昔に出入りする用事はなくなっていただろうから、曲がりなりにも役に立ってきたと考えていいのだろう。
もちろん、仕事においては常に「役に立ちたい」と強く願ってきた。
しかし、願いが結果に通ずるとの保証はどこにもない。
つまり、仕事に臨むにあたっては、常に憂いがつきまとった。
真剣であれば真剣であるほどその度が増すので、いつまで経っても気楽に流せるといったことにはならない。
若い頃は勘違いしていた。
慣れれば楽勝、容易くなる。
たしかにそういう側面もないではないが、責任が伴う場において容易いと弛緩する暇はどこにもなく、責任に向き合えば向き合うほど、慣れて心は平穏であっても一抹の重苦しさを拭えない。
だから行きの汽車から眺める明石の海と帰りの海とでは同じ海でも見え方がずいぶんと異なる。
行きは一点凝視。
どれだけ年季を積んでも同じこと。
自分が果たすべき役割にのみ向かい合っているから、海を見つめているようで実は別のものをそこに見ている。
帰りは視界が広がり時間が流れ出す。
ただぼんやりとそこにある海を眺める。
憂いは消え去っている。
その解放感が更に海を広く大きくし、だから心も広く大きくなっていく。
そのような行き来を通じ学んだことは、無心であろうとすることの大切さと言えるだろうか。
任務について意識すればするほど邪念のノイズが増していき、憂いが募る。
だからその正反対、無を招き寄せようと心がける。
次第、一点凝視の先がおぼろとなって、憂いは鎮まり自身の何かが発動し始める。
あとはなるようになるだけのこと。
身を任せれば自然と水に浮く、というのと似た要領と言えるかもしれない。
案ずるより浮くが易し、とはよく言ったものである。
委ねてしまえばあら不思議、仕事は捗り任務がこなせ月日の流れもスムーズになって、気づけばすべてがあっと言う間ということになる。
事に際しては慌てず騒がず。
心を無にして、あとは委ねる。
仕事という舞台の心得として息子らに伝えることがあるとすれば、その一語に尽きると思う。