ジムでたっぷり運動した後、息子は梅田に向かった。
久々、西大和の友人らが勢揃いすることになっていた。
例のごとく会は深夜に及びいったん解散となったが、すぐに今日また集合となった。
山の日だから、登山。
皆で六甲山に登り有馬温泉に入ってくるのだという。
年の割にはしっかりとした顔立ちで精悍な男子らが山で束になるから目を引くことだろう。
もし道中、話し好きのおばさんなどがいて、「どちらの学生さんですか」と声をかけたとすれば、返ってくる答えの極端に際立った偏りにそれを冗談だと思うかもしれない。
揃いも揃って高偏差値の青年らが素朴健全に山に登って湯につかり、明日は明日で母校西大和を訪れるというから、これまた健気で微笑ましい。
教師としてすべきことは何か。
西大和の先生らは職責を十分に知悉し、教師間でそれを共有している。
当然、生徒にたっぷり愛情を注ぐから、生徒らは学校に強い愛着を持つし感謝の念が卒後になって増していく。
この相互作用が学校の芯となる。
西大和は将来ますます良い場所になっていくことだろう。
そして、良きネットワークはそこで閉じて完結するのではなく、波及し、質を上げその強さを増していく。
兄貴つながりで一体何人の兄貴分を二男は得たことだろう。
馬力十分な弁慶が何人も味方にいるようなものである。
いまはちょっと顔を知る程度の間柄でも、先々機会あればすぐそこに芯が通る。
そうと分かるから、ありがたい。
そのようにして二男には二男の唯一無二なネットワークが形成されていく。
振り返れば、家内についても同じことが言える。
子らが小さいとき、家内の周囲にはチャラチャラしたようなお母さんも何人かいた。
チャラチャラという余剰は、自分のことで頭がいっぱいで子のことがお留守になっていることの表れとみてまず間違いない。
子育てはたいへんで、真剣に格闘するうち家内にはチャラチャラと付き合う余裕などなくなっていった。
いつしか周囲にそんなお母さんはいなくなった。
結局、相通ずる同類の方だけが残ったのだと思う。
以後、出合う母、出合う母すべてから何か学ぶことがあり、その学びは家内の益につながっていった。
ネットワークというのは無闇矢鱈なものでは全く意味を為さず本来はそういった類のものなのだろう。