隣家の女子が二十歳の誕生日を迎え、彼女の父は垂れ幕を作った。
ベランダから階下へと架かる垂れ幕に娘の名と祝成人との文字が大書きされている。
垂れ幕という表現方法に驚きを覚えるがそれ以上に娘への深い愛情と節目に対する喜びが伝わってくる。
日中には伊勢にお詣りし家族揃って着物で正装しちゃんとした写真館で記念写真も撮ったという。
娘はかわいい。
親となった友人らからはそう聞かされるが、わたしには息子しかいない。
だからそんな話を聞いても、そうそうと娘への愛おしさが込み上がってくることはない。
息子への愛情を更に大きく深くしたようなものだろうか。
そう想像を巡らせることができるだけである。
もしそうなら、なんでも買い与え、わたしも垂れ幕を作るような父であったかもしれない。
娘が嫁ぐとき、隣家の父は大泣きするにちがいない。
感情の起伏のなか、相手の男に殺意すら覚える瞬間もあるかもしれない。
おそらく一発くらいはぶん殴るだろう。
うちは男子だからそんな心配はない。
泣くなどあり得ず、殴るなど起こり得ない。
そう思えば少しは気楽。
女子の子育ては手がかからず楽とは聞くが、その身を案じることの気苦労が絶えることなく、相手がよほどいい男でない限り、嫁いだ後も心配でならないだろう。
一生、親は心休まらない。
だからこそ、一つ一つの成就が、それが当たり前のようなことであっても嬉しくて仕方ないということになる。
親であれば気が気でなく、かつ喜びに満たされる。
それが女子の場合は男子の倍増し。
そういうことなのだろう。
相手の父親に一発ぶん殴られるくらいの確かな女子を、息子らには連れてきて貰いたいものである。