どこか出かけよう。
そう話していたが、息子を送り出したあと家内がソファで寝入ってしまった。
疲れているのだろう。
起こさぬよう毛布を掛け、わたしはひとりジムへと向かった。
たっぷり一時間。
晴天の秋の空を窓外に見て筋トレに取り組んだ。
みなぎる感じがたまらない。
こんなに力がつけば、路上で若い腕っ節に掴みかかられても簡単には負けない。
そう思える。
つまり、みなぎってくるのは自信であって、それが筋トレ最大の恩恵と言えた。
家に戻るとちょうど家内が起き出して来た。
ぶらり隣町で遅めの昼を食べることにした。
3連休2日目、電車の中はくつろいだ雰囲気に溢れていた。
わたしたちが座る目の前に少年がいてかわいい。
見ているだけで顔がほころんだ。
息子二人を育てたからだろう。
見知らぬ少年であってもすべてがかわいく思える。
しかしその瞬間、心の中でいや違うと思った。
不穏な感情がこみ上がり抑え難い。
世界中のちびっ子をかわいいと思うが例外があった。
もちろん子に罪はなく子に原因があってのことではない。
その子の親への嫌悪感が拭い難く、それで一緒くたになってしまうのだった。
心が汚れているも同然である。
眩しいほどの秋の陽光が車内に差し込み、自身の内にある汚れがくっきり明瞭になっていった。
一体、心の内で何が起こってこうなってしまうのだろう。
汚れがあるという違和感が、現象の解明に向け思考を誘った。
世界広しと言えど、わたしにとって嫌悪の対象となるのはその人ひとりしかない。
わたしからすれば赤の他人であってまったく無関係。
実害をこうむる訳でもない。
何か脅威を感じることもなければ、感情がざわつく羨望を覚えることもない。
どちらかと言えばバカに見えて滑稽でしかなく、だからそれを愛嬌として受け取ってもいいのだろうが、生臭いと言えるほどの勝ち気と底意地の悪さがこちらには透けて見えるから、まったく笑えない。
いまではその周辺も含め何の交流もない。
が、たまにふとしたきっかけでこんな風に不快感がよみがえる。
思考により解決の糸口を見出そうにも、感情が無限にループしていくだけで考えは前へと進まない。
つまり、自分の手に余るキャパオーバーの問題と言えた。
精神科医である33期の姜先生なら何て助言をくれるだろうか。
ええんちゃう、気にせんで。
そんな声が聞こえる気がした。
時が経てばこの汚れも自然と消えるのだろう。
姜くんのことを思い浮かべただけで、気が楽になった。
と、そのとき家内に長男からメッセージが届いた。
試合に勝ったという報告であった。
皆と寿司を食べている写真も添えられていた。
偶然にもわたしたちも昼は寿司。
寿司屋のカウンターで息子と一緒に食べているような気になって、夫婦でちょっとした祝勝会となった。