登場人物はタコちゃんとカネちゃんと天六のいんちょ。
乗り物は自転車。
皆でうどん屋に集まって、わいわいがやがやおばちゃんに食券を渡すところで目が覚めた。
鮮明に残る向こう側の場面を、現の側にて回想して思う。
これがわたし。
夢の登場人物はもっぱら家族か友だち。
祖父母はいまも健在で常に優しく、子らは小さく友人らも昔のまんま。
夢のなかでは様々な時間が行きつ戻りつ混在している。
そういう意味で無秩序ではあるが、その他は日常と大差ない。
平凡な光景が繰り広げられ、間違ってもそこに世界情勢や政治状況が関わってくることはなく、高邁な理想や深淵な思想が顔を覗かせることもない。
つまり、自身の器の実像を、夢がそのままに物語っている。
夢の中身を見れば一目瞭然。
わたしには内に湧き上がる野望もなければ何か託された大仰な使命もない。
気ままに日常を遊泳し、家族と過ごし友人らとうどんを食べる。
そんな一介の小市民に過ぎないということが明瞭に分かる。
そしてその平穏無事が心地よく、日記となって姿を現す。
思えば、日記においても時間は自在に行き来して、まるで夢と同様。
だから夢と日記がそっくり入れ替わったとしても違和感が生じない。
現実を挟んで浸透圧に差がない状態と言え、わたしは寝て夢を見て、起きて日記を書いて、そのどちらも心地が良くて、実は同じこと。
これはもしかしたら幸せの極地なのかもしれない。