不意をついて長男が帰省した。
食卓を家族4人で囲んだところで、吉報が舞い込んだ。
それでそのまま星光33期の話になった。
毎回言っているとおり。
33期は皆かしこく、その子らもすこぶる賢い。
6年前のこと。
皆が皆、無事に中学受験を突破した。
桜が咲いたと集まって飲んで、月日が経った。
今度は大学受験。
いやはや、これまたよくできた話。
当時集まったメンバーの子らが全員、見事大学受験も突破した。
驚くのは、当たり前のように33期の子らが超難関の国公立医学部に合格すること。
東京で塾講師のバイトに携わった長男が言った。
普通じゃない。
星光33期の世界は異常であって、親も子も含め世間との極端な隔たりを理解しておいた方がいい。
長男が塾講師を務めた教室は高級住宅街にあった。
地域としての階層は最上位で、ハイソな雰囲気が地域の隅々にまで満ちていた。
だから、当地において親は子が属す階層も最上位であることを求めた。
ところが、話はそう簡単にいかない。
いつしか長男は気づいた。
何を教えるかは二の次。
親の願望と子の実情の板挟みになって、無難な着地点を見出してあげるのが塾講師の役割なのだった。
そこから芦屋の話になった。
中古の外車に乗って親から子まで偽ブランドに身を包み、外側を最上位に装うことは難しくない。
ところが、中身。
これは一朝一夕には取り繕えない。
だからこそそのギャップに人の本性が現れて物悲しい。
では、中身とは何なのか。
家族の会話は西大和と星光の対比に移った。
家内には後ろに目がある。
過去に見開かれたその眼は、長男が過ごした西大和と二男が過ごした星光を凝視して、後者について非難の色合いを帯びる。
星光出身のわたしと二男は、反論ができずうなだれて、そこで長男がまた言葉を発した。
ワインはすでに二本目が空になっていた。
そんな比較はちゃんちゃらおかしい。
一方は創業者の野心を実現するための企業といった存在であり、もう一方は、創始者の理念を体現させるべく存在する学校である。
まったく存在意義の異なるものを、同じ指標で語るのは愚かしい。
星光が送り出す人材は世で一目置かれ、そんな学校の持つ価値が東大何人かなどで語れるはずがない。
西大和だって、今後そのようになっていくはずで、真に語られるべきは、その学校がどんな人材を育て、彼らが社会に対しどんな貢献を為したかだろう。
わたしは深く納得した。
この日、長男は帰阪してすぐジムでカラダを鍛え、二男は買い物のあとプールでカラダを苛め抜いた。
親としては、息子らが仲間との友情を育みながら、地に足ついた人生を送ってくれればそれで十分。
東大が何人か。
まったくうちには関係のない話なのだった。