コロナ禍にあっても業績好調な企業を訪れた。
最後が社長との面談。
業務の話を終えて、社長が小声で言った。
うちと付き合いを始めて取り引き先が増えたのではないですか。
まさしくそのとおり。
人の縁に恵まれ良好な軌跡を歩んでいたが、この会社の業務を手伝うようになってから仕事のフェーズが一次元上がった。
続けて社長が言うには、ある人と付き合うようになってから大口案件が立て続いて、その好影響が取り引き先にも波及している、とのことだった。
もともと事業がうまく運んでいて、私生活の充実度も並ではない社長である。
特に娘さんらが得た良縁など人も羨むという話であり、もしわたしに娘がいたとすれが彼我の差の激甚に心中穏やかではなかったことだろう。
つまり、そもそもの最初から運気が良いのにある出会いを契機にそれが更に良くなったということであり、その恩恵をわたしも受けているということであるから、小声になって当然の話であった。
会社を後にし、思う。
わたしなど下々の生まれであり、この歳になって尚あらゆる点で出来損ないであり、人生の第一次選考でとうの昔に失格になってもおかしくないような人間と言えた。
それがまだ生き永らえることができているのは、縁に恵まれその温情に与っているからに他ならない。
自身の綻びが自力ではなく、良き付き合いによって補正され、運気が正しい方を向いている。
そうとしか考えられなかった。
運気の存在を手にとってはいと見せることはできないが、あって不思議はなく、それがあると仮定した方がいろいろなことの説明がつきやすい。
そう思えた。
そして、運気に好作用を及ぼす付き合いがある一方、おそらく、運気に障る悪しき付き合いというのも存在するのだろう。
振り返れば幾人かの顔が思い浮かんだ。
露骨すぎるほど厚かましくネットワークビジネスに巻き込もうとするおばさんがいた。
価値不鮮明な情報商材をふっかける拝金主義丸出しの若者がいた。
老人を相手に原価数十万円の工事に平然と数百万を請求する業者がいた。
偽ブランドに身を包んでしかし下々を見下す見栄っ張りで品のないセレブ気取りがいた。
人としての敬意を持てぬ時点で一歩引き、そのまま疎遠になったが、それで良かったのだろう。
帰宅すると、隣家の女子らがうちに遊びに来ていた。
長男はこの日もジムでの筋トレに励み、二男は武庫川で走り込みを行った。
その分、くつろぎの度が増して、醸される団欒の光景に心が芯から和んだ。
いい繋がりがいい繋がりを呼ぶ。
子らをみれば一目瞭然の話だった。
もしそこに悪しき繋がりが持ち込まれてしまうと、一切がダメになる。
それもまた容易に想像できることだった。
誰と付き合うかで運気が変わる。
社長との話でわたしは意識するに至ったが、分かっている人にとっては端から分かりきった当たり前の話なのだろう。