息子らとは30ほど歳が離れている。
この30年を振り返り、彼らがわたしの年齢に達する30年を想像してみた。
属する階層を異にする。
そう言うしかないほどの差をありありと感じた。
わたしはと言えば、数々のチャンスを傍観しのんべんだらり無為に過ごしてきた。
日々前向き、ひとつひとつ何かを積み上げていく。
そんな在り方の対極であぐらをかいた。
だから、過去を思えば自然と視線は下を向く。
子を授かって以降、ちょっとは頑張ったが若気の怠惰が尾を引いた。
サイドブレーキを引いたままアクセルを少し踏んでも空転するだけ。
大して前へは進まない。
すべての要素で彼らにひけをとる。
食生活など顕著。
長男はめっぽう酒に強い。
が、飲酒は友人らと遊ぶ機会にのみ限られる。
免疫力が落ち、コンディションに障る。
そう言って普段はまったく口にしない。
いまは未成年の二男もそうなるだろう。
実際、長男と同様、二男も食事にかなり気を配っている。
めちゃくちゃく食べる二人であるが肉が中心で、ご飯は控え目。
ジャンクフードには目もくれず、食の煩悩が理性の前へと躍り出ることはない。
並べて比較すれば、わたしなど汚らわしい。
隙あらば好きなだけ食べ、隙をついて好きなだけ飲む。
食の煩悩のなすがまま。
意地汚いにもほどがある。
しかし、いずれは年貢の納めどき。
そんな「汚れ」を数値として突きつけられれば、二の句を継げない。
吹田岸辺の長谷クリニック、阿倍野の田中内科クリニックで定期的に検査を受ける。
今回、「これはあかんやろう」という結果の両ばさみに至った。
つまりは、詰んだ。
改心するのにちょうどいい機会を与えてもらった、そう思うしかない。
二人の息子が青年から中年へと至る30年と軌を合わせ、わたしは中年から老年へと続く30年に入っていく。
まだまだ分厚く人生の時間が残されているということである。
カラダは陰ったが、幸い、心はまだ若年。
子らがお手本。
彼らがするように、コンディションに気を配り、この30年と真剣に向き合う。
それが、怠惰に葬り去った時間たちに対するせめてもの償いになるだろう。
そう思い、5月5日の子どもの日、お酒を飲まず三食のご飯を軽めに済ませた。
たった一日のことなのに。
底に穴があいたみたいに野放図に漏れ出ていた時間が、ぴたりと止まってわたしに向いた。
そんな手応えを感じた。
その昔、彼らが小学校低学年の頃。
武庫川を一緒に走り、引き離された。
二人の小さな背が眼前に浮かぶが、実はその後もずっと差は開き続けていたのだった。
だから、子どもの日を機会にリスタート。
二人の息子の背がまだ遠くに見えるうち、彼らに胸を張って語ることのできる、もっとましな一日一日を過ごそうと思う。