家に帰ると親父がいる。
平日なのにしょっちゅう。
子らはそんなわたしの姿をみて育った。
学校も塾も決められた時間まで拘束される。
よって否応なく時間に重さがあることを体感することになる。
時間から解き放たれて見える親父を目にし、彼らなり何か感じるところはあっただろう。
わたし自身も時間の重さについては知悉している。
勤め人時代の一時期はまるで檻の中に入れられていたようなものであった。
檻の中では時計の針は重くしなびて動かない。
職場の窓から大きな街路が見渡せた。
暮れゆく街に吹く風がくつろぎ感をかき立て、外を行く人の足取りは軽く表情はほころんで見えた。
が、わたしの終業の時刻はまだ当分先。
そのちょうどいい明度の時間帯、往来に飛び出し自由に歩き思いのまま風に吹かれるなど望むべくもなかった。
そうと分かっているから他者に委ねられた時間の歩みは更に遅々として、空間までもが拘束着と化し身を圧した。
その窮屈に抗する筋力をわたしは先天的に持ち合わせていなかった。
いつしか人生で実現すべき最大の課題は時間の奪還という一点に絞られた。
幾年かが過ぎ、しがない立場と引き換えに白紙だらけの時間を手に入れることができた。
埋めても埋めても余白が残る。
ある意味では心もとない話であるが、次から次へと勝手に書き込まれ線を引かれるより遥かにマシであった。
ちょいと落書きするみたいに白紙に記して、あとは余白に漂う。
つまり、やることさえ片付けてしまえば、仕事を続けようが席を立とうが自分の自由にできる。
そんな暮らしに慣れてしまって、その喜びについてすっかり忘れていたが、先日役所で二時間以上待たされ動くに動けず、かつての拘束感がよみがえった。
自由に動けない。
これはやはり時間の価値を毀損されるようなものであり、自身の合意がなければ耐え難い。
血は争えず、おそらく二人の息子も同様。
時間の自由を最大の価値とする。
わたしのように中途半端にではなく自分の時間を獲得し、思う存分のびのびとその時間を謳歌してもらいたい。