何がどうあれビールは美味しく、そしてビールは裏切らない。
大学に入ってビールの味を覚え、勤め人時代には連日飲んだ。
若い頃はいくらでも飲め、呼吸するみたいにじゃんじゃか飲んだ。
結構な飲みっぷりの日々を過ごし、ひとつの思想が形成されていった。
何があろうと日が暮れればビールが飲めて、そしてビールは裏切らない。
つまり、嫌なことがあろうと辛いことがあろうと、ビールを飲めばすべてが癒える、という境地に至ったのだった。
だから、同時に思った。
太古の昔、そこにビールは存在しない。
勤苦を経た後、何が人々の癒やしとなったのだろう。
ビールのない寂寞を想像し、わたしはプルル震えた。
そんな20代は、わたしにとってやはり若気の時代だった。
30を目前に結婚し、まもなく子らが姿を現しわたしは自営の者となった。
若気では済まない状況が押し寄せて、直感した。
この万能薬は、万能であるがゆえ深刻な欠点を抱えている。
つまり、すべてがビールで贖われるならすべての問題は不問となって、向上心の出る幕がない。
これでは勝負にならない。
それでここ一番、大奮起が求められる場面においてはお酒を断った。
が、大体、半年もあれば形勢は整う。
根底に横たわる思想は不変で、再びビールは裏切らないという日々に舞い戻るのだった。
わたしが見い出し長きにわたって恃みとしたこの思想は当然、子らにも伝える。
たいていのことは取るに足りない。
何があっても大丈夫。
ビールは美味しく、そしてビールは裏切らない。
だから、嫌なことや辛いことがあっても深刻に受け止めず、さあ、飲もう。
ここ一番を除いては肩肘張らず、軽い感じで明るく楽しく、ビールがあるさといった気構えで生きればよく、長丁場を渡り切るには是非ともそうであるべきだろう。
しかし、そんな思想を保持したまま、いまわたしは脱アルコールの日々を継続している。
それが苦ではないのは、日常の刻苦から解放されたからかもしれない。
いずれにせよ、いったん不要となって気がついた。
ビールの存在しない暮らしにかつては怖気を覚えたわたしであったが、それは絶対的なものではなく、代替はいくらでもあるのだった。
ビールに固執する必要はなく、代わりはいわば星の数ほど。
今ならよく冷えたペリエを飲みつつ温めの湯につかって本を読む時間が最上であるが、もしペリエがなければサンペレグリノを飲み、万一、風呂が沸かねばそこらを走って汗をかけばよく、そうなると本は読めないが音楽を聞けばいい。
そのように取っ替え引っ替え癒やしは見つかり、どれもこれもが裏切らない。
星の数ほどあるものを列挙し語ることはできないので、家訓はこうなる。
ビールは裏切らない。
あくまで、ビールという語はひとつのたとえ。
各々、あてはまるものを数多く見つけてもらいたい。