ようやく人並み。
ここ数年、衣食住についてはなんとか事足りるようになった。
いまやそれが当たり前のようになって、だから衣食住自体は今の幸福度にさして寄与しない。
この日、家内は二男を連れてアウトレットに向かった。
東京で暮らす若い男子には着衣が数多く必要で、だから折りに触れ買い足すことが欠かせない。
ついでに長男の分も選ぶことになり、その更についで、わたしの分も何点かは紛れ込むことになった。
夕刻、買ったものを見せてもらった。
ナップサックやシャツやシューズなど、いかにも息子に似合いそうなものばかり。
息子の男っぷりが増すと思うから、実に嬉しい。
わたしの分については嬉しさの度合ははなはだ微弱。
もはや衣食住といった暮らしの基本要素で幸福が嵩増しされることはないのだった。
まもなく長男から電話があった。
彼から連絡があるとたいていの場合、おもしろくかつ吉報を含むいい話がもたらされる。
そこで発生する喜びは衣食住とは比較にならない。
喜びをもたらす肝心な核は、物質の側ではなく無形の情報の方に含まれる。
衣食足りてはじめてわたしは喜びの本質を知ることになったのだった。
いい報せは心身を活性化させる。
内的世界の明度が増して樹々は爽やかな涼風にそよぎ生きとし生ける全細胞が歓喜の声をあげる。
長男の話を笑顔満面で家内に報告しつつ、まったく脈絡なくある人物のことがふと頭に思い浮かび、気付いた。
喜びの核は無形なのであるから、その情報がもし仮に実質を欠き事実に背く虚飾や虚偽の類であっても、人はご満悦になることができる。
なるほどそのようなメカニズムがあるから、束の間のものであっても幸福を求め、その人は嘘ばかりつく訳である。
火の用心、火の用心。
巻き添えにならぬよう注意しなければない。
そして、まもなくわたしは別アングルにて人生の真実を告げ知らされることになった。
二男に対し長男の話をニコニコと報告しているとき、電話が鳴った。
もたらされたのは悪い報せだった。
仕事をしていれば、ときおり、そんな話が降りかかる。
聞いた途端どっと重いものが肩にのしかかり、内的世界は水を打ったように静まり返った。
笑顔は消え去り、眼前に暗雲が立ち込めた。
調子に乗るな。
そんな警告だと真摯に受け止めるしかない。
現段階では無形の情報に過ぎないが、無思考で放置すれば、形を成してこちらに襲いかかってくるかもしれない。
こんな場合、誰かを責める他責思考はご法度となる。
身から出た錆なのだと自らを戒め渦中のど真ん中に身をおいて、まずはファイティングポーズを取らなければならない。
暗く沈みつつ最悪の事態を想定し、必死に解の道筋を考え丸く収めるイメージを幾つも描く。
どれだけ注意していても仕事は個人プレーではないから悪い報せを根絶やしにすることはできない。
だから常なるせめぎ合いを前提としなければならず、事が起こる度、気力を振り絞ってできれば無形の段階にて跳ね返すと腹を括る必要がある。
いい報せだけがもたらされる人生であれば、どれだけ幸福だろう。
そんな考えが頭をよぎるが、何事も相対的な関係にあるというのが世の理。
いい報せばかりだと、いまの衣食住同様、幸福の感度が鈍化するだけのことだろう。
辛みがあってこそ甘みが引き立つ。
どんとこい、と最後までこの身を奮い立たせるしかないようだ。