結果的にはこれで良かった。
大学受験を経た後、息子二人に何かをこじらせたような跡はなく、各自胸を張って生きている。
親としてほっとするところである。
こだわりを手放せないまま過去を引き摺ると、時に認知が歪む。
繰り言が話題の先頭に来るような人がいて、事実を偽造したり歪曲する人がいて、やたらと対抗心をむき出しにする人がいて、息するみたいに小ウソをつく人がいる。
自らを正当化したいのであろうし有り得べきだった優越感を手放したくないのであろうが、みっともなくて面倒くさい。
結果、要注意人物であるとの評価が周囲において定まるが、本人だけが気づかない。
そもそも本人に罪はない。
極貧を余儀なくされた、思うような進学を果たせなかった、恋が成就しなかった。
不本意な過去は多種多様あって、誰にとってもどうにもならない。
なんとか呑み込んでしまうしかないが、場合によってはいつまで経っても受け入れらない。
そういうことも起こり得るだろう。
煩悶と向き合い続けるのは苦しい。
だから過去を書き換える。
しかし辻褄が合わない。
自ずと現在を書き換え時に強弁し、未来もそれに合わせて書き換えていかねばならない、ということになる。
事実との相違が増殖し、それらがまた現在進行で不本意な過去となっていくから負の作用が呪いのように連鎖する。
受験や就職や結婚といった人生の節目が要注意。
そこで大きな見込み違いが生じるとダークサイドに陥りかねない。
土俵際、自身を踏みとどまらせるのは、何だろう。
負けは負けだが、人間万事塞翁が馬。
単なるかすり傷、命をとられた訳ではない。
神様の思し召し。
見方を変えれば地に足ついて、手つかずの未来が前途に広がる。
そのスケールでみれば過去の一事など針小なサイズでしかない。
よってそれが棒大化することはない。
振り返ればわたしなど棒大の負けが立て込んだような人生と言える。
が、いま思えばすべては屁のようなもの。
消えてなくなり、過ぎ去ったいまその影さえ見当たらない。
こんなちっぽけな親父でも元気溌剌、幸せに生きている。
出来損ないであっても大丈夫。
生きた実例がそう物語れば、失意の底は浅くなり諦観だって健全な色を帯びてくる。
まあこれでええんちゃう。
そう思えた暁には取り繕うことなど何もなくなる。