下町で生まれ育ったから身に沁みて理解している。
うな丼に松竹梅があるように、社会には階層がある。
良し悪しはともかく、あるものはある。
物心ついたときにはすでに序列が存在し、同じ国語を使っているから語感に意味が伴ってその観念が身の深奥に縫い込まれていく。
だから誰であれ子を持つ親となれば、その進学に無関心ではいられない。
それなりの学校に入った方が生きやすい。
否定しても始まらない。
わたしはいま他力の恩恵のなかで生きている。
一丁前みたいな顔をして生きてはいるが、実のところ松竹梅に混ざった苔というのが真相だろう。
そこに編み込んでくれたのは学校。
やはりその役割は侮れない。
子らを育てそんな思いはますます強まるばかりである。
家内が久々、ママ友らと食事に行く。
息子らの仲が良く、西大和には行事が多かったから母同士も顔を合わせる機会が多くそれで自然と母らも仲良くなって今に至る。
息子の親友のひとりは京医に通う。
白い巨塔の世界に父を持ち、だから周囲には阪医を勧められ、すこぶる優秀であったから学校からは強く理三を勧められ、間を取ったのか京医を選択することになった。
もうひとりは、学校に強く京医を勧められ、難なく通るだろうと誰もが認める実力者であったが現役合格に絶対的な重きを置いて阪医に進んだ。
生徒の意志をブーストし、高みへとその背を押す姿勢に揺らぎがない。
そこが西大和のいいところと言えるだろう。
大阪星光においてはそんな「鼓舞」機能は望めない。
が、そこに学校が自負する持ち味がある。
歯がゆい思いをしている教員も少なくないように思えるが、熱い声高さがないからこそ進学先で人を上下に見るような分け隔て感が星光生には少なく、それはそれで希少な価値観を醸成していると言えるだろう。
話は戻り、そのように苔が松竹梅とも自然な感じで付き合って親友になる。
学校だとそういうことが容易に生じ得る。
中高を経て息子らにいい友だちがたくさんできるだろうとは思ってはいたが、予想以上だった。
点ではなく線、先輩後輩を入れれば面となって世を渡る。
苔むす親としてこれほど心強いことはない。