わたしと家内にとって息子は、かけがえのない存在である。
が、他人からすればどうでもいいようなものだろう。
ふとした拍子、そんな真相が可視化される。
小さかったとき、彼らはやんちゃで身内であっても幾人かには疎まれた。
わたしは人の子もかわいいと感じるが、そう感じない人もいる。
なるほど、ホモサピエンスはチンパンジーと隣合わせ。
そう知って以来、我が子を守るのは親しかないのだと寒々とした思いを噛みしめることになった。
昨日金曜、仕事を終えて実家に寄った。
カメラのキタムラでプリントしてあったここ最近の息子らの写真を持参した。
父は見入って、二人とも男らしくなったと目を細めた。
おそらく父のなか彼らはちびっ子の面影のまま刻印されている。
だから、目に映る姿と記憶に残る姿との差にじんとくるものがあるのだろう。
それら写真を母にも見せたいと思うが、いま母はいない。
最後に言葉を交わしたとき、半ば朦朧とした状態で母は彼らの名を呼んだ。
その場面が眼前に浮かぶ。
「太郎は元気か、次郎は元気か」
自らが病の淵にあるのにそんな風に孫を気遣った母の胸の内を思うと、やはりついつい涙が溢れてしまう。
今もますます元気。
二人とも充実した時間を過ごしている。
母が座っているはずの場所に向けわたしは伝えた。
父と母にとっても、うちの息子たちはかけがえのない存在なのだった。
当たり前のことであるが、明確に書き残しておくべきことだろう。
父と会話し、わたしが誰かのことを悪し様に皮肉ったとき、父が言った。
思っていることはただ思うだけにして、いちいち口にしない方がいい。
父にそう言われると、理屈ではなくその教えが腑に落ちる。
言えば言うほど、せっかくのこの世界が薄汚れてしまう。
そういうことなのだろう。
ただそう思って口にはしない。
五十を過ぎて、またひとつ賢くなった。