最初は頭から信用していた。
人伝てに聞いて、その男の虚言癖を知った。
だんだん何が本当で何が嘘か区別がつかないようになって、ほとんどすべてが嘘なのだと感じるようになった。
信用が第一。
わたしはそんな世界で生きている。
虚言に巻き込まれる訳にはいかなかった。
距離を置くのは危機管理として当然だった。
いま思う。
虚言癖にも遺伝的な要素があるのかもしれない。
男女の別はあるが、その女性の虚言も「大きく見せようとする」という点でベクトルはまったく同じ。
人は言葉を使う。
つまり妄想と隣り合わせの世界を生きている。
鳥や蝶が羽を広げるように嘘をつき、嘘で空を飛び人の心に寄生して、そうやって生き抜いてきた「血」があっても不思議はない。
が、善悪で言えば善に属するとは言い難い。
距離があれば笑って済ませることができても身近にあれば危なっかしい。
実際、わたしはその嘘で足元をすくわれかねなかったし、いまも心持ちの悪い状態に置かれている。
その人物を虚心にみれば、さもしく、あさましい。
虚言をたどればそんな心根にたどり着く。
非力を補うためパワーゲームの資源として嘘を使い、パワーゲームであるから誰かの立場を悪くしたり、傷つけたりということが起こり得る。
当人は、さもしくあさましく、だから誰かに迷惑がかかっているとは思ってもみない。
インスタの嘘写真など一見、他愛ない。
貰ってもいないプレゼント、泊まってもいないホテル、作ってもいない料理、画面に溢れるブランド品のコピーなど次から次へとハッピーでリッチな近況が捏造され、その稚気な虚栄は笑いさえ誘う。
が、そのグループの基準値を上げ、見た者の心に何かザワザワとしたもの不穏な心情を生じさせかねない、というのも一面の真実だろう。
カンニングをした誰かによってテストの平均点が吊り上がり、平均点だったはずの心の平穏がぶっ潰される。
結果、落伍者感がもたらされる。
そういった話に例えられるだろうか。
そのように焚き付けて煽って得られる羨望、言い換えれば動揺が、虚言者の糧となる。
そして、エネルギー争奪の風下に置かれた者を蔑み嘲るのであるから意地が悪いこと甚だしい。
わたしたちはそんな正直者が馬鹿を見るようなエネルギー争奪の場に居合わせる必要がない。
地味で静かな世界に属し真面目に日々を営み、努力と誠実さを尊ぶ価値観のなか信頼関係を深め合って生きている。
だから、そんな世界とは当然に疎遠になるが、共通する場があると少しは困ったということになる。
虚言の構図のなかに取り込まれ虚言の素材にされるなど想像しただけで、気分が悪くなる。
だから、関わらない。
そうなると、虚言者がもっぱら属す人間関係からも距離を置くということになる。
つまり、疎遠が別の疎遠を生むのであるから罪作りな話である。
子らには言う。
わたしたちは真面目に生きている。
だから、そんなおとぎの国の登場人物すべてに関わらないでいい。
どのみち虚言の材料、パワーゲームのコマにされるだけである。
互いの子らを含めて一切合財引き続き、このまま疎遠であることを願いたい。