この日は朝から明石での業務だった。
昼を前にメッセージが届いた。
吉報だった。
妹の子が上智大学に合格を果たした。
英語学科だと言うから見事念願が叶ったのだった。
席を外し妹に連絡を入れた。
母が生きていれば、どれだけ喜んでくれたことだろう。
思うのは同じことだった。
うちの息子らの大学合格を告げたとき、母はたいそう喜んでくれた。
よかった、よかった。
その声が懐かしい。
孫らはみなしっかりと育っている。
母の良き心根のおかげ。
が、母と喜びを共有したくてもいまや伝えようがない。
よかった、よかった。
母の声をひととき回想し任務に戻った。
明石での業務は夕刻まで及び、続いて大阪に向かった。
来年開院の案件があってヒルトンの一階で面談の予定が入っていた。
実に楽しい面談となって、約一時間話し込み、午後7時、帰途についた。
帰宅し、家内に姪っ子の吉報を伝えると家内が昔の写真を引っ張り出してきた。
場所は大阪城公園。
うちの子らと妹の子らが一緒に遊び、そこに母もいた。
2006年4月1日との日付があった。
写真を見て夫婦で思い出すのは同じことだった。
たまたま同じ公園内に家内の知人が居合わせた。
うちの子と妹の子たちを見て言い捨てたそうである。
難民の子みたいやな。
写真を見れば着飾ってもおらず確かにもっさい。
にしても、なんと底意地の悪い言葉だろう。
たとえ軽い気持ちでの発言であったとしても言われた方は何年経っても忘れない。
が、そんな心ない言葉とは無関係に「哀れな」子どもたちはしっかり育った。
東京にてうちの息子たち、妹の子たちで連絡も密に充実した学生生活を送って、大阪城公園で一緒に遊んだときのままずっとこの先も仲良く過ごすことだろう。
そして母の面影はそこで確かに生き続けるから、これまた大阪城公園でそうであったように、一緒にいるのも同然と言っていいだろう。