クリスマス前夜のこと。
息子は女子友と日比谷のクリスマス・マーケットを訪れる予定にしチケットも確保していた。
が、東京で暮らす66期の友人がその日ひとりぼっちであることが分かった。
一緒に火打山にも登った仲であるから放っておけない。
そこで息子は驚くべき行動に出た。
女子友との約束をキャンセルし、彼は66期の友人をクリスマス・マーケットに誘ったのである。
女子友には一緒に過ごすことのできる家族がいて大勢の友だちがいて、この先約束の埋め合わせをする機会はいくらでもある。
しかし、66期の友人にとって東京はまだ異郷で、親しく過ごせる相手は星光生をおいて他にない。
彼を孤立させ知らぬ顔をするなら中高を通じ6年付き合った意味がない。
だから、その意思決定に迷いは微塵もなかった。
そのようにして、星光出身の男子二人はまるで天王寺界隈を当てもなく歩くように、数々のイルミネーションによって光り輝く日比谷公園をぶらついたのだった。
そんな話を家内から聞かされて思う。
彼がとった行動は聖人列伝にひとくだり加えられるべき話とも言えるだろう。
それでこそ星光生。
洗礼名はさしづめ健さんとなるだろうか。
やはり、期は水よりも濃いのだった。
さかのぼること6年前。
入学式の際、校長は言った。
ここに集められた生徒は故あって神に招かれた。
その深い意図のもと皆がここに集まり、今後その縁をより一層深めていく。
つまり、「迷いは微塵も」というはるか前からこうなることは決まっていたのだった。
そして、この先もどのみち同じ。
いい歳になった中年の66期たちが、女房をさしおいて皆で集まる。
そうなることは目に見えている。
他の期も同じ。
星光生となったからにはそうなるのが定め。
だから、せめて理解ある女房を娶るべきという話になるだろう。