頭に来ると視界が曇って狭くなる。
下町のおじさんなどに顕著で、小さい頃、そんな姿をさんざん目にしてきた。
まぶたを閉じれば、ひっくり返されるちゃぶ台の様子がストップモーションで浮かび上がる。
下町全体を見渡せば、壮観。
無数のちゃぶ台がお茶や味噌汁の飛沫をあげながら裏返っていく。
その様は遠くから眺める分にはスペクタクルであるが、間近だとそうも言っていられない。
えっ、そんなことで。
原因は概して他愛ない。
聞き間違いやちょっとした言い間違いがもとで導線に着火する。
そうなるとおじさんらの頭の中は可燃物だらけであるから鎮火し難く、燃え盛る。
過去に積み上げたものをすべてご破算にし、将来全部をうっちゃるほどの短慮が燃えて燃えて燃えまくるのであるから、ああ、人は人になってまだ日が浅いのだと下町においては理解がとてもよく行き届くことになる。
そんな感情に共振すれば、こちらも同様に発火して、取り返しのつかない結果に呆然とするといったことになりかねない。
だから、怒りの火の気のあるところには近づかず、その火の元にも十分注意を配らなければならない。
飲めばハンドルを握らないのと同じこと。
少しでも頭に来たら、もはや「しらふ」ではないのであるから、即座に思考を中断し、フィールドの外へと退場するのが正しい、ということになる。
世代が下るにつれて可燃力は低下し、わたしたちなど至っておとなしいものだが、それでも血の気が皆無ということはなく、相討ちも辞さずグーにはグーといった対応をしかねない潜在性を秘めている。
先日、怒りをもって対峙するのが当然といった場面にわたしの妹が行き当たった。
相談を受け、わたしが前に進み出て、怒るであろうわたしに妹がささやいた。
かっとなったらあかんで。
お母さんがそばにいると思って話してや。
母は誰にでも分け隔てなく優しく、誰のことも悪く言わなかった。
母がそばにいる。
そう思うだけで、気持ちも柔らかに視界が澄んだ。
と同時、内に兆し始めていた鋭利な尖りはたちまちのうちふにゃけてまろやか円みを帯びて、生じたのは余裕だった。
この先もずっと。
わたしは母に助けられ続けるのだと思った。

