ずっと根を詰めて仕事をしていたから、三連休を前に余裕が生まれた。
もはや自由。
いま新幹線に飛び乗れば、連休を家族と過ごすことができる。
が、腰は上がらない。
家でのんびり過ごす心地よさに抗えない。
それでわたしは自身の本質を理解した。
いつか自由な身となって、あちこち好き勝手にほっつき歩きたい。
かつて心の底からそう願望し、それがわたしの人生のゴールのはずだった。
あれからどれだけの月日が流れただろう。
いまや思い立てば、行き先は限られるにせよほっつき歩くことなど願望するまでもなく実現できる。
玄関にクルマもあって、ガソリンは満タンである。
しかし、わたしはここに留まり、出かけやしない。
つまり、切実だったはずのわたしの願望は、そうしたいと思い込んでいるだけの単なる空想に過ぎなかったのである。
苦境に置かれ現実から目を背けるために「ほっつき歩ける身」という空想が必要であっただけのこと。
苦境を脱すれば空想の用は済み、そこで顔を出すのが真の欲求と言っていいだろう。
「ほっつき歩く」より、家で映画や読書の世界に身を沈める図の方が、はるかに強くわたしを魅了する。
息子には再三再四、言ってきた。
時間があれば、旅行でもなんでも移動すること。
そうすれば日常が換気されて、新たな自分が発見できる。
そう言っておきながら、わたしは自らに移動を課さず、ここに留まりじっとして過ごす。
なぜなら、これがほんとうにしたいことであり、もし移動の道中に置かれたら、「早く家に帰ってゆっくりしたい」と願望することになるだろう。
だからこそ、わたしには家内が不可欠だったということになる。
女房と一緒に出かけるからこそ外出が楽しい。
もしわたし一人きりであれば嬉々として引きこもり、変人の度をとことん深めていたに違いない。