ひと汗かいた後、休憩室のソファに腰掛けた。
水分を補給しながら、ニュース番組に目をやった。
カラダが冷え始めたところで、再びわたしは岩盤エリアに戻り寝転がった。
じんわりと温まって汗が噴き出した。
日々つきまとう雑念も一緒に排出されて、この空っぽ感が実に心地良い。
風通しのよくなった意識のなか、さっき目にしたニュースがよぎる。
ロシアはなんてひどいことをするのだろう。
なんてことなのだ。
そこに彼の国生まれの愛らしいチェブラーシカの面影がふと浮かぶ。
ニュースに触れるまで、わたしにとってロシアと言えば、まず第一にチェブラーシカだった。
それが筆頭に来るくらい、他に知識は何もなかった。
ということは、このところ目にするニュースがわたしの思考と感情を司っているということである。
もしロシア側の情報ばかりを目にしていたら、正反対の感想を持つに至ったのかもしれない。
つまり、接する情報により、異なる思考と感情が内に形成され得るということである。
だから、生まれる時代と場所が異なれば、触れる情報も異なって、もしかしたらわたしは独裁者を卑屈なまでに礼賛する者であったかもしれず、国益のためとあれば蛮勇をも辞さないナショナリストであったかもしれず、教祖に涙してひれ伏す熱心な信者であったかもしれず、ポピュリストのお先棒を我先にと担ぐ提灯持ちであったかもしれないということになる。
平日の夕刻、岩盤エリアに人はいない。
岩盤の暗がりのなか、思う。
ニュースに触発されてこのところ、自身の内にナショナリズムといったものが芽生え始めている。
ロシアが攻めてくる。
そうなれば、彼の地の人々と同様に、わたしたちもこの国を守らねばならない。
豆鉄砲を食らったハトが正気に返るかのように、そのような覚悟が形を成しつつある。
しかし、その一方、もう一人の自分がそれを醒めた目で見る。
そもそもナショナリズムといったものが人にデフォルトで備わっている訳ではない。
カラダのどこを探しても、ナショナリズムを自然発生させるような器官はなく、それは外からやってくる。
つまり、これも併せて、「感化された結果」ということになる。
ああ、なんとヒトとは心もとない存在なのだろう。
元は無色で何色にでも染められて、この色こそ正義と固執し他の色を排斥までしかねない。
岩盤の上、弛緩し横になっているだけであるが、せいぜい20分で限界となる。
だんだんじっとしていられなくなって、起き上がる。
休憩室に出て、ソファに腰掛け水をがぶ飲みする。
ここでわたしは自身が信奉する根本的な価値に思い至る。
わたしは自由。
何処で誰に何を指図される訳ではない。
自由こそが尊ぶべき価値。
頭に入った情報ではなく、身体がわたしにそう告げた。
しかし、立場を変え統治者側から見れば、こんな厄介でめんどくさい代物はないだろう。
皆が皆、自由を享受できれば戦争など起きやしない。
なにしろ、自由なのである。
自由な国同士が双方互いに戦争との民意をもって角突き合わせるなど想像し難い。
自由があまねく行き渡り、世界の国々すべてが民主化するなど夢のまた夢なのだろうか。
ナイーブな夢想に浸りつつ、現実から遠く離れた岩盤の上、わたしはだらんと寝転んだ。