長年にわたって業務に携わり、たいていのことには慣れ、だから仕事に勤しむ時間のほとんどを平常心で過ごすことができる。
平穏が何より。
そう思う性格のわたしであるからこの状態が幸せで、もし日常が憂いに侵食されれば職業者としての耐用年数は激減の一途だろう。
だから、気の張る課題は少ない方がよく、できれば避けて通りたいと思うが、それがゼロになれば何の発展も望めないから、折々、気合を入れて重い腰を上げ、そして、その道中、ああでもないこうでもないとひとり深憂の中で前途を案じるということになる。
車窓の向こうに目をやって、つくづく思う。
何年やってもこの緊張感からは逃れ難い。
しかし、もはや駆け出しのひよっ子ではない。
憂いに為されるがまま手をこまねく時代はとうの昔に終わった。
わたしは自身が長年かけて積み上げてきたものを信じることができる。
そして自身の戦績についても熟知している。
どんな場面をもうまく乗り切ってきた。
だから後のことは自分に託し、当のわたしはそこから離脱すればいいのであった。
乗り物に例えれば、自動運転に切り替えるようなものと言えるだろう。
今回もひとつよろしく。
あとは勝手にうまくやってくれる。
わたしは自身を離れ、音楽に聴き入る。
エルトン・ジョンの「ザ・ワン」が流れる。
遡ること四半世紀前。
わたしはひとりイギリスの地を旅していた。
その頃、あちこちでヘビロテされていたのがこの曲だった。
季節は初夏で、青々とした緑に風が爽やか薫る。
歌声に導かれるようにしてそんな肌を吹き抜ける風がありありとよみがえり、神戸三宮の地でわたしは清涼感に包まれた。
そしてその状態で業務に取り掛かった。
わたしはわたしで彼の地で憩い、その一方、自動機械のごとく自身は熟練の技にて業務をこなし、あれよあれよという間に終わって駅へと向かう道中、わたしはロンドンから神戸の自分に帰還した。
と、電話が鳴った。
長男からだった。
これから練習試合が始まるのだという。
今季はフォワードの要、チームの副将としてシーズンを戦う。
それなりに緊張していて、それで父の出番と相成ったのだろう。
コンセントレーションの方法は多種多様。
雑念を父に預け、まもなく彼は無我夢中の境地へと赴いた。