KORANIKATARU

子らに語る時々日記

会わずにいても身近な存在

このほど女房が戻ってきた。

東京滞在の疲れを取るためヘッドスパを受けてくる。

だから帰宅が遅くなる。


そう言うから、わたしも寄り道して帰ることにした。


帰途、ひさびさ岩盤浴に寄って、夕刻の時間を過ごした。


疲れも取れて清々しい。

小雨が残る夜道、駅を降りバスを待っていると「ぼちぼちいこう」との言葉が浮かんだ。


で、考えた。

いまわたしが「ぼちぼちいこう」と自ら思ったのだろうか。

あるいはそう言われたのだろうか。


実際のところ、この言葉は33期の姜くんがよく使う言葉で、元を辿れば姜くんに由来する。


その言葉が何度もわたしに届いて、いまもまた届いた。

そう解釈すれば、言われた、ということになる。


そもそも、すべての言葉がわたし以外に端を発する。


言葉が浮かぶという能動か受動かが不分明な領域においては、だから「言った」というより「聞こえた」というのが正解なのかもしれない。


そうであればさっきの記述はこう書き換えなければならない。

バスを待つとき、姜くんがわたしに囁いた。

「ぼちぼちいこう」


その言葉を受け、バスに揺られてわたしは考えた。


自分がこなせる範囲であれば、苦もなくこなせる。

例えば週末のジョギングなど、自身の脚力と肺活量の範囲で走るから苦であるどころか喜びさえ伴う。


同様に、等身大の力量で毎日毎日、課題をこなす。

楽でもないが苦でもない。

その境界線上でバランスを取り、楽に転ばず苦に取り込まれず、これを毎日続けていく。


それがぼちぼちということだよね。

胸の内、そうわたしは姜くんに言って、いつかおそらくこの日記を読んだ姜くんが、そうそうと言うことになる。

 

久しく会わずにいても友人というのはいつだって身近な存在なのだと実感しつつ、この夜はただの平日。

わたしは姜くん同様、ノンアルで過ごした。

女房不在時の一人飯 阿倍野ルシアス 仙台ホルモンときわ亭