週の初日の月曜午前、家内はこのたび新規で加入するジムに出かけた。
初回の体力測定で「アスリート並み」との判定を得て、家内は大いに気を良くした。
日頃欠かさず通うヨガの成果と言え、今後は筋肉の増強にも励み水泳もメニューに加える。
これでこの先も「アスリート並み」の体力が維持増進されることになる。
そもそも体育会ゴルフ部で鳴らした家内である。
元が強靭。
だから、その強靭が内面化されていて子育てにも反映された。
物心ついたときにはプールへ、そしてやんちゃ盛りとなった際にはラグビーチームに放り込み、結果、息子らにも強靭さが備わって、おそらくゴリラの群れの中でもサバイブできる程度には強くなった。
先日、ヨガの先生が言ったという。
小ウソは連鎖し拡大する。
例えば、年齢を誤魔化せば、家族や同級生の年齢についてもウソを重ねることになる。
その過程で微に入り細に入り事実が書き換えられて、小ウソがたたって自らを見失うことになる。
そんな話を聞いて家内のなかある人物のことが浮かんで思い至った。
小ウソと弱さは仲良しこよし。
弱さが小ウソという衝立を必要とし、衝立のおかげで弱さは弱さに安住できる。
なにしろ小ウソで飾ることに努力は不要。
だから楽で無際限となり、しかし、そこに堂々と胸を張れる自分はない。
一方、強さは内に備わって余計な飾りを要しない。
そのままで堂々とでき、自分を証すために声高になる必要が全くない。
実際、強い人は強がったりしないし、自らの等身大に憩って他人の視線に頓着しない。
それなりの試練を母子にてくぐり抜けてきた。
その過程で身についたのは内に備わる何かであって、それを言葉で表すとすれば強さということになるだろう。
たいへんだったけれど、そういった奮闘にこそ価値が宿る。
こんな人間と出会いたい、こんな人間と仲間になりたい。
人は強さを求め、だから、そう思わせる最大のファクターは、虚飾の正反対、内に備わる強さに在ると言えるだろう。