動いていると余計なことが頭から消える。
月曜の午後、業務を終えてプールで泳いだ。
ユーチューブで参照した腕のストロークを試そうと思うから、そこに意識が向いて、地上で俎上に載せる一切合切が消えてなくなった。
泳がなかったら考えたであろうことが、泳ぐことで消えていく。
プールのなかでは泳がねばならない。
そこに直結する表層を意識がイキイキと動いて、下層でうごめいているのかもしれない思念には見向きもしない。
じっとうずくまり下層に沈むあれやこれやを根暗にほじくり返しているよりも、頭を空っぽに水を切って泳いでいる方がはるかに健全なことと言えるだろう。
だから泳いだ後の爽快感は、内と外の両方に訪れる。
カラダもすっきりするが心も晴れる。
考えても幸福はやってこない。
ウェルビーイングへと至るには、泳いだ方が手っ取り早い。
走っても筋トレしても同様であるから、心身の健全を保つには運動が不可欠だということが実によく分かる。
わたしたちの祖先である「鉄人」は考えるより動くことが常態であったに違いない。
つまり、デフォルトの最適設定は「動く」であるから、動かない日常に置かれていれば、不穏な過剰が蓄積しこれはおそらく内を害す方向で作用する。
運動した方がいいと言うよりも、運動しなければ始まらないといった方がいいだろう。
プールをあがって家内とジムで合流し、筋トレして前日に続き腹がちぎれるのではと思うほど腹筋に勤しんだ。
やはり、息子たちがスポーツに励んだのは正しいことだった。
ハードにカラダを動かすことで、過剰が内を損なったり無為な空転を招くことが回避され、彼らの気力や体力という幹のようなものになった。
夫婦で頭は空っぽ。
喜びに満ち溢れ、風呂をあがって帰宅した。
また明日も。
余計なことを考えればジムへと足が向かないから、行きの途上から無思考の助走が始まる。