銀座三越に黒はなかった。
紺でもいいかと息子が諦めかけたとき、「黒が圧倒的に人気なので黒にこだわった方がいい」と店員が助言してくれ、在庫のある店舗を探してくれた。
幸い梅田阪急のストーンアイランドに在庫があることが分かった。
その場で取り置きを頼んで、紺で妥協せずに済んだ。
この日、梅田近くを通りかかる用事があったので、わたしが店に立ち寄った。
品物を受け取り、息子にラインでその写真を送ると同時、自然と昔の記憶がよみがえった。
一年前を思えばなんと平和なやりとりだろう。
去年の今頃は外資系などの選考が大詰めだった。
連日にわたって息子は面接を受け、外銀などでは一日に連続して7人や8人と30分刻みで会うといったスケジュールだったから、そんな報告を聞くだけで親は滅入った。
が、彼はそのプロセスを隅から隅まで楽しんでいた。
コツは自身を若手芸人だと思うこと。
彼はそう言った。
いわば、就活芸人といった話になるだろうか。
駆け出しの芸人にとっては、どんな出番も貴重な修練の場となる。
すべての場面が芸の肥やしになるのだから、怯んでいる場合ではない。
場数を踏めば踏むほど芸に磨きがかかって、つまり、すべての面接が自分の糧になる。
そう考えればガッツが湧いてくる。
そんな話を聞いて、わたしは大いに納得させられた。
なるほど、芸人は実のところファイターであり、自身を芸人と置き換えて生まれるファイティングスピリットは就活生にもってこいと思えた。
その言葉どおり彼は打ち続く試練をくぐり抜け、数々の激戦を勝ち上がり、それにつれ自ずと芸は円熟味を増し、どんな場面でも動じず、必要に応じ笑いをとれるまでになった。
仕舞いには歴戦の強者さながら、場を自在に操る域にまで達したと言えるのではないだろうか。
そしてこの先も疑いようなく、彼の芸域は広がってその厚みも増していく。
今度上京した際、今のバイトを通じて更に膨らみを増すその芸に直接触れることができる。
それを大いに楽しんで食事を振る舞うわたしたち夫婦は一種のタニマチみたいなものと言えるかもしれない。