いろいろな事業所をまわるが、ちょっとこれは、と手を焼く女性が幾人かいる。
できれば接するのを避けたいが話をしなければならない場合があり、そういうときは決まって気が重くなる。
大阪の下町で暮らしていた少年時代のこと。
町のあちこちに「こわい奴」がいた。
「こわい奴」と言っても少年で歳は2つか3つしか変わらない。
が、それが巨壁となって立ちはだかる。
年少者は手も足も出ないのだった。
「こわい奴」は目が合えば難癖をつけて吠え始め、噛みつきはしないが言葉を発し、何か応答しなければならないから犬より始末が悪かった。
だから、出くわしそうな気配を感じるだけで怖気を感じた。
いま五十を超えたが、内に吹く臆病風は当時と何ら変わりがない。
それら女性たちは遠慮解釈なく居丈高で、情け容赦なく威嚇的で、歯に衣着せず高圧的で、日付けが変わっても同じことを言い続けるほどに粘着的で、それはもうガキの時代の「こわい奴」を凌駕する。
まともな相手なら話せば分かる。
が、思い込んだ了見が突拍子もなくへんてこりんなものであって、かつそれが唯一の正義と化して絶対的に他罰的であるから、こちらの頭がおかしくなってひれ伏さぬ限り話は終わらない。
もちろん、駆除していいとのことであれば、こちらも「こわい奴」に揉まれた手腕を発揮して問答無用と抗せるが、いかんせん世はいろいろな諸事情に縛られ、わたしの手だって縛られる。
で、そんな頭痛胃痛の種ともなる女性について考えて思うのだった。
もしそれが家庭にお目見えすれば地獄ではないか、と。
実例には事欠かない。
33期を見渡せば、発火気質の女子の責苦に為す術なく苛まれている同志がチラホラと視界に入る。
一度着火すれば燃え盛り、果てしなく燃え広がっていく。
火中にある友人を思い、しかし十字を切ってその安否を気遣うのみ。
なんと不憫な。
そう思うのみ。
できることは何もない。
せめて他山の石として、これから伴侶を得るであろう息子たちに、「こわい奴」による厄災に見舞われぬよう注意を促さねばならないだろう。
招き入れたらお先真っ暗。
最後の日までその人と一緒に過ごしたい。
心からそう思える人を探さなければならない。