土曜の朝、ランニングを終え家に戻ると、家内に出発時間を告げられた。
さっさとシャワーを浴びて支度し、指定された十一時半には家を出た。
行き先は京都。
紅葉のシーズンであるからクルマだと渋滞に巻き込まれるのは目に見えていた。
だから電車を使った。
山科で乗り換え東山で降り、まずは昼食の店に向かった。
ちょうど開店となる午後一時に到着したが、そこにあったのは行列だった。
結局45分もの無駄な時間を路上に突っ立って費やした。
しかし、不平不満は胸の内に留めた。
家内がこの店で食べるというのだから仕方ない話なのだった。
食べて思う。
たしかに美味しいが何もここまで並ぶようなレベルではない。
そんな感想を胸にしまって、続いては美術館に連れられた。
絵画展といった催しを想像していたが、着いてみるとそこに展示されていたのはエルメスだった。
エルメス製造の舞台裏を紹介するという趣旨のイベントで、その何が面白いのか大勢の人が詰めかけていた。
エルメスなどわたしからすれば遠い別世界の話であり、無縁であるから興味もない。
それでおのずとわたしの関心はエルメスから来館者の方に向いた。
買うにしてもべらぼうに高く、たとえ買えるお金があったとしてもいま品薄で手に入らない。
だから関係ないと思う人がいる一方、それが意味深なシンボルとなって強く惹き寄せられる人もいる。
眺めていてそんな後者も二層に分かれるのだと見て取れた。
お金のあるところにはふんだんにお金があって、いくらでもこういった類のかばんが買える。
そんな層がいて、そしてその層に憧れて似せて真似ようと必死に背伸びをしている層がいる。
頭から爪先まですべてにわたって行き届き、もちろん顔まで美しくスタイルもいい。
女性が描く理想の女性像とでもいった女性が幾人もいて、かばんだけ一点豪華といった女性とは明らかに身から放たれるオーラが異なって目を引いたから、層の違いは歴然としていた。
しかし、そんなかばんをあの人もこの人も携えているのであるから、門外漢のわたしからすれば結局は「誰もが持っている」かばんとしか映らない。
そんなある種「大衆的」なかばんが人の心に強く大きく作用する。
会場内にて照らし出され展示されていたのはそんな生々しいような「人のサガ」と言えるのかもしれなかった。
やっとのことで外へと出たときには清々しかった。
京都はどこも混み合っていて、おそらく大阪もそうだろう。
だから夕飯は、大阪をひとまたぎして神戸でとることにした。
山科からちょうど一時間で三宮に着き、わたしはイタリアンの店を予約していたが、歩いていると小綺麗な女性が感じのいい焼き鳥屋に入るのが見えて、家内が即座その店に二席の空きを確認し、こうしてイタリアンは取りやめとなって土曜夜の夕飯は焼き鳥ということに相成った。
直感したとおり焼き鳥は実においしかった。
家内は白ワインのハーフを飲んでわたしは熱燗を二合飲んだ。
ここに来てようやくわたしにとって上々の手応えの週末が到来した。