宝塚にて業務を終えたとき、時刻は夜8時を過ぎていた。
月曜から水曜までノンアルで過ごしたから今日はいいだろう。
西宮北口で阪急電車を降り、盛り場の方へと足を向けた。
客引きギャルらの甘い誘いをかいくぐり目指すは大松で、もはやわたしの行きつけの店と言えた。
カウンターに座って、ひとりで飲んでひとりで食べ、ふと日記をみて驚いた。
ここ最近、わたしは大松に足繁く通いそのペースは週一に近かった。
感覚としては数週間に一度といった認識であったから、やはり何事も記録してみないと分からない。
わたしの場合、日記をみればだいたいのことが分かる。
いつどこで何を食べたのか、どこでどんなところに泊まったのか。
そして、そういったことだけに留まらず、家族で対峙してきた様々な場面について、そのときの様子や心境まで含めて記してあるから、それらメインイベントについての記憶も褪せることがない。
例えば息子二人が挑んだ中学受験や大学受験について日記を通じいつでも振り返ることができ、この日記は息子らが出場した試合の観戦記としての側面もあるから、日記を通じてその場面をいつでもありありと再生することができる。
そのほか、家内の日々の取り組みについても綴っている。
だから記憶だけでなく家族への思いや愛も褪せることがない。
更に驚くべきことに日記は思わぬ副産物をもたらしてくれる。
かれこれ十年以上にわたって日記を続け、そうと気づいてその確信は日に日に強まるばかりである。
日記であるからたいていは過ぎたことについて書く。
が、過去を記しつつ、その行間には未来への思いが自然と溢れ、実のところ、未来について記しているも同然ということになる。
つまり日記は自ずと「祈り」といった性質を帯び、ここからが不思議なのだが、なんとその祈りが通じるのだった。
日記が未来を後押ししてくれる。
そんなバカな話があるもんか。
そう思う気持ちは分かるが、日記が次へと進む波を起こし、追い風を生む、というのは本当のことである。
念ずれば通ず。
日記書きはみなこの言葉を実感しているはずである。