霜が降り寒さ極まる武庫川にてランニングを終え、家内と共に梅田へと買い物に出た。
昼を終え、家内はヨガへわたしはジムへと向かった。
月末にかけて忙しく、わたしはジムを疎かにし家内はヨガを何度か休んだ。
だからこの土日はわたしはジム、家内はヨガに充てることにしていた。
いつもより長く泳いで筋トレに励んだ。
マシンで胸筋をいじめ抜いているとき、前に置いてある椅子になんとなく目がとまった。
ぼんやり目をやっていると、そこに座ってわたしをじっと見ている母の像が浮かんだ。
ああ、そんな風に母は向こうからわたしのことを見ているのだろうか。
母の話がごく自然と頭に浮かんだ。
母一人子一人だったから、幼い母はよくひとりで人形遊びをして過ごした。
ひとりで遊ぶから独り言ばかり言っていた。
家族ができて、だからほんとうに嬉しかった。
わたしからすれば母は明るく可愛らしく誰からも好かれる優しい存在だった。
では母からみてわたしは?
これまでそんなことを考えたこともなかった。
母にとりわたしが最初の子どもで、胸に生じた愛着は人形などとは比較にならぬほど大きいものだったに違いない。
会えば必ず言った。
カラダだけ元気やったらええで、健康がいちばん。
ああしろ、こうしろなど一切言わない母だった。
今になって母の深い愛情を感じ、胸が締め付けられる。
ああ、なんてわたしは出来損ないなのだろう。
親孝行がまったく足りないまま、母を向こうへとやってしまった。
筋トレをしつつ涙が浮かんで頬を伝うが構わない。
涙は心の汗だと昔誰かが歌った。
どのみち汗まみれなのであるから、なにも取り繕う必要などなかった。
筋トレを終え風呂場へと移動した。
サウナはかなり混み合っていた。
冷え込む土曜の午後、風呂にだけやってきた人が大勢いるのだろう。
サウナに据え付けられたテレビの画像を見るともなしに見て、わたしは引き続き回想にふけった。
母はうちの息子たちのこともたいそう可愛がった。
二年前の3月、上京前に二男が母のもとを訪れたときのこと。
母は買い物に二男を連れ、顔なじみに会う度、嬉しそうに言った。
「この孫、こんど東京に行きやんねん」
その4月に病院に運ばれ5月に他界するなどいったい誰に予期し得ただろう。
母にとってうちの長男も二男も自慢の孫だった。
人形でひとり遊んでいた幼い女の子は元気で丈夫な孫たちに恵まれた。
いまも向こうから君たちのことを目を細め見守ってくれている。
ときには目を凝らし耳を澄ませ、優しいおばあちゃんのことを思い出してもらいたい。
そしてわたしたちは母の思いを胸に、皆で仲良く明るく元気に生きてゆかねばならない。