怒ったら怖い。
息子たちはそう思っているようだが、これまで一度もわたしは彼らに対し怒ったことがない。
小さい頃はやんちゃで、中学高校でも素行が模範的という訳ではなかった。
だから、学校の先生には何度か強く叱られていたようである。
が、わたしからすればどれもこれも諭せば済む話であって、何も声を荒げるまでのことではなかった。
この親に比べれば学校の先生は迫力不足であったかもしれず、だから学校の先生の方からすれば彼らはやや骨がありすぎて扱いにくい目障りな存在であったに違いない。
だから時に強い怒りを誘発してしまったのだろう。
わたしも親に怒られたことがほとんどない。
もちろん皆無ではなく、小さい頃、イタズラをして近所のガラス屋の積荷の下敷きになりそうになったときは母にこっぴどく叱られた。
しかし、一歩間違えれば命に関わる話であったから、母が怒ったのも無理はなかった。
父には二度怒鳴られたことがあった。
一度は若くして嫁いだ妹の婚約式のときのこと。
わたしは黄色いシャツを着て出かけようとして怒鳴られた。
おまはこの式をぶち壊す気か、と。
もう一度は法事に遅刻したとき。
遅刻し怒られ、大雨を言い訳にした瞬間、烈火のごとく怒鳴られた。
かしこまった場では白いシャツを着る、時間を守るのは当然で事が冠婚葬祭となれば遅刻などあってはならない。
そして言い訳をしない。
そんな当たり前のコードが社会には存在する。
それがわたしの胸に否応なく刻み込まれたのだから父は正しく怒ったと言えるだろう。
いま思い出してもそれだけである。
それ以外、こんな出来損ないのわたしであったが、一切怒られることはなかった。
労苦の多い人生を生きざるを得なかった両親であった。
子どもたちにはのびのびと生きて欲しい、窮屈な思いをすることなく暮らして欲しい。
両親の思いは一貫していたように思う。
その結果わたしは伸び切ってしまったからほんとうに両親には申し訳なかったと身が縮む一方、そんな言外のメッセージに込められた願いがいま芯から理解できるから、親への感謝の気持ちを抑えようもない。
わたしも息子たちに対し思うことは同じである。
のびのびと好きに生きればいいと思って、だから別に怒ることなど何もない。
韓流ドマラをみていると親が子を激しく怒鳴るシーンが続出する。
そこに表出しているのはたいていは親の未熟なエゴであり、親の側の拭いようのない不遇感である。
つまりは八つ当たり。
親が子を怒鳴るシーンほどこの世にグロテスクなものはないとつくづく思う。