朝、家内がサカイの冷麺を茹でてくれた。
店で食べると麺が気抜けするほど柔らかいが、家内が作るとアルデンテな仕上がりで店よりおいしい。
デザートにいちご大福を半分に分けて食べ、わたしは仕事に出た。
事務所にてひとしきり業務に没頭しているとまもなく昼。
さて今日は何を食べようか。
思案しつつ近所をぶらり歩いて目が合ったうどん屋の暖簾をくぐった。
たちまちのうち満員になった。
どうやらかなりの人気店であるようだった。
実際、うどんの麺が独特で一度食べれば癖になる。
この店は今後、昼のローテーションの一角を成すことになるだろう。
事務所に戻りつつ思う。
このように日々が平穏に過ぎていく。
当社比較といった話と同様に自分比較をするならば、これまでで今がいちばん平和で心穏やか。
とても幸せな日々に恵まれていると言えるだろう。
しかしそれでも完全無欠という訳にはいかない。
気がかりなことが絶えず、以前よりマシになったとは言え引き続き気忙しくたまには仕事で滅入るようなこともある。
皿回しの皿は順調に回っているように見え、随所で揺らぐ。
おっとっと。
揺らぐ度に肝が冷えるがなんとか持ちこたえ、揺らぎながらも必死になってバランスを保持する。
木曜はジムが休みなので仕事後、家内と待ち合わせて食べて帰ることにした。
店は家内が予約した。
古民家風の趣きで落ち着きあって実にいい。
小さな音量でユーミンが流れ更に気持ちがやわらいだ。
なんて居心地のいい店なのだろう。
和食をちょいとつまんで夫婦で日本酒を注ぎ合った。
ああ、この日常。
この日常が愛おしい。
それなのに四方八方からあれやこれや、この日常に揺さぶりが入る。
皿回しの皿はその都度困惑するが、それで回転をやめてしまえばかけがえのない日常が失われてしまう。
つまり、揺らぎは死の影とも言え、だから些細な揺れでもわたしたちは大いにたじろぎ、しかし日常を死守すべく、結局は回転することだけが助けになるから、つべこべ言わず今日も回って明日も回る。
それが生きることの一面の真実と言えるだろう。
もちろん、いつかは尽きてこの回転も終わりを迎える。
そうではあるが、この日常はわたし一個のものでなく、関わる人たちすべてとの共有物でもある。
だから最後の最後まで。
揺れに揺れて不格好であろうがありとあらゆる奮闘を尽くし、この奇跡の皿回しを継続していくことになる。