前日と打って変わって冷え込んだ。
が、日脚が伸びて、残照を受けほのか輝く川の流れが春の訪れを告げていた。
夕刻、場所は武庫川。
川面に長く伸びていた自分の影がいつしか薄闇の中へと消え去った。
先日、スキイチが言っていた。
一寸の虫にも五分の魂というとおり、どんな生き物にも意識は存在している。
ただ、解像度に差があって、たとえばヒトが感じる意識と虫のそれとでは似て非なるものだろう。
ヒトの場合、脳内のネットワークが非常に複雑で混沌としている。
そのせいで、同じものを見たり聞いたりしても、状況によって認知が異なり、反応はランダムなものとなる。
だから、何が飛び出すのか、ヒトは意識を意識せずにはいられない、ということになる。
一方、虫の場合、意識はあっても進むか退くかといった程度で、認知がシンプルであるから意識を意識することはないだろう。
そのように意識レベルは相対的なもので、ヒトであっても、起きるか寝るかと逡巡する朝の寝床の朦朧は、虫レベルの意識と言えるかもしれない。
逆に、冴えに冴えているつもりでいても、もっと高次の意識レベルが存在しているとすれば、わたしたちはどこまでいっても虫レベルのようなものとも言えるだろう。
そんなスキイチの飲み屋での話を思い出しつつ、わたしは自身の意識に目を向けた。
暗がりのなか、意識は冴え渡っている、と感じる。
ただ、走る。
このとき意識は進むか退くかといったレベルで非常にシンプルな状態に置かれている。
だからかもしれない。
とても心地いい。
言い換えればゾーンに入っている状態と言え、それが幸福なのは意識が絶えず生み出す混沌から解き放たれているからなのだろう。
意識が蚊帳の外になる。
野生とはこのような忘我を指すのかもしれず、であれば生けとし生けるものは幸福を享受しているとも想像できる。
逆に、意識まみれとなったとき、自我が肥大し煩悩で頭が雑念だらけとなったようなとき、人は苦痛を覚え「生きることは苦」といった結論に至ってしまうのではないだろうか。
だから一見幸せそうであっても、ヒマで時間を持て余し、自分のことで頭がいっぱいといった状態の人はマックスの苦しみを抱えているとみて的はずれなことではないだろう。
意識を通じヒトは何かを学ぶプロセスに置かれているとも感じるが、ぶーんとひとっ飛び。
幸福という観点でみれば虫レベルに回帰しようとするのが、よき心得と言えそうだ。