会社には独身寮があって月にわずか8千円で住むことができる。
ほぼ新築でジムや食堂、駐車場などの設備も万全に整っている。
だから当初、そこに住むと息子は言った。
諸先輩らとの交流も深まって、第一、ぴかぴかのマンションに月額8千円で住めるなど、新社会人にとって経済的なメリットは計り知れない。
海外駐在前の住処として最良ではないか。
寮の見学を終えて、そう息子は結論づけた。
が結局、熟考のすえ彼は寮には住まないと決めた。
働き始めれば、そして真剣に仕事に取り組めば取り組むほど、会社が暮らしの中心になっていく。
その渦中に喜んで身を投じる覚悟だが、しかし、住む場所も会社の寮となるとすべての時間を会社の手の平の上で過ごすも同然といったことになりかねない。
同僚と行きも帰りも一緒で、食事するところも職場も同じ。
いくら住居費が安くても、それは果たして自分にとって本当にいいことなことなのだろうか。
八割方は会社に身を預けるにしても、残り二割は会社とは別、自分だけの場所があった方がいいに違いない。
おそらく自分の独自性は、そういった些細なこだわりの累積から生まれるはずで、その独自性が自分の将来にとって絶対的に重要と思えば住居費の差など問題とするにも値しない。
彼はそう考え、賃料は破格に高いがいまの本郷の住処に居続けることにした。
寮には住まない。
およそ重大事でなく、どうでもいいような意思決定ではあるが、これを契機に彼が自身の独自性をより先鋭的に意識し追求することになるのであれば、後々、象徴的な判断だったと振り返られることになるだろう。
まもなく新年度が始まる。
その春に向け、彼が住む部屋の設えが急ピッチで大人仕様に様変わりし始めている。