わたしたちは四人家族であるが旅先においてこそ四人であることがくっきりと際立つ。
家族でいろいろな地を旅してきた。
そしてどの場面においても四人は一体であった。
西陽を受け、旭川から札幌へと向かうクルマのなか、代わる代わる誰かが歌った。
西表島ではこの四人で隊列を組み、原生林のなかを奥深くへと分け入った。
四万十川ではそこに棲息する生き物であるかのように四人で長い時間、水につかって遊んで過ごした。
マイナス10℃の極寒の朝、震えながらソウルの街を歩き朝食の店へと向かったのもこの四人であったし、ハレクラニのキングダムや六本木や丸の内のウルフギャングでテーブルを囲み山ほどの肉を平らげたのもこの四人であった。
そのほか旅先にて、ありとあらゆる場面で四人であったことが記憶に鮮明に残っている。
同じ場所や日常の時間においては重複が生じるからか当たり前過ぎるからか、屹立するような記憶は生まれない。
見知らぬ場所に身を置くことで各メンバーの存在がさらにいっそう深く刻み込まれる。
だから家族の連帯感を強固なものとするため旅することはとても大事ないとなみと言えるだろう。
息子たちが巣立って、ここ最近は夫婦で旅することがもっぱらになってきた。
しかしわたしたちが四人家族であることは変わらない。
それぞれとっつかまえて、またどこか遠くへ行きたい。
そうすれば未来の時間もまた家族共有のものとして随所にて屹立することになる。