息子たちにも乳児といった時代があった。
文字通り家内が乳をやりおむつを替え風呂に入れ寝かしつけ、一時も離れず息子たちを守り育ててきた。
その時期を思えば、とてもよく分かる。
家内という母の実際性と比較して、わたしという父は観念的な存在に近い。
わたしはあれこれ理屈を述べるだけの呑気な観念でありまあ役には立たず、一方、家内はその実際性において極めて優れていた。
心配性と言えるほど些細な兆候に敏感で、常に頭を働かせて最良解を見出そうとし、労を惜しまず手間暇かけてそれら実のある良きことを数々実践してきた。
わたしはもっぱら外で仕事に明け暮れていたが、それも含めて家内の実際性の手のひらの上にあったと言っていいだろう。
つまり、家内の実際性が適材適所を見極めた。
こんな観念的な存在は、子育てという実際的な場面においてたいして役に立たず、需要があるなら外で働かせておく方が先々リターンが大きい。
家内はそう先を読んでいたに違いない。
もし家内が子育ての場面にわたしを引きずり込んでいたら、どうなっていただろう。
例えば土日。
平日は私が子育てに注力したから土日はあんたがみて。
といったようなことであれば、わたしは駆け出しの時期に必要な能力値を高めることができず、よって、駆け出したはいいがいまに至って低空飛行を続け、余計家族に迷惑をかけていたことだろう。
幸いにも家内が息子たちを育て、息子たちはその実際性の恩恵に与って、また家内仕込みの実際性を内蔵しリアリストになった。
例えば、わたしは料理はからっきしなのに四六時中食べることを夢想しているが、息子二人は自ら料理が作れ、かつ食事管理も抑制的にしっかりこなせる、といったようなことである。
頭でっかちな観念部分は彼らにおいて付録程度といった配合で済んだから、わたしという存在の弊害は少なく、だからわたしのように若くしてあさっての方向へと走り出すといった遠回りな人生を送ることはないだろう。
実際的な世の中において実際的な結果を出し、将来、子育てにおいても実際的な役割を果たし得る。
そう確信できる。
いつも思う。
家内が男だったら凄かっただろう。
幾人もの男を束ねて率い、目が行き届くから信頼されてかつ恐れられ、コミュ力も桁外れであるから勢力は自ずと拡大し、だから敵に回して得することは何もない。
それが息子において実現する。
期待含みではあるがそう思えてならない。