夕刻、リチャードに教わったとおりに泳いだ。
このところ忙しくてジムが後回しになりがちだった。
時間が勿体ないと思ってのことだったが、勘違いも甚だしい。
ジムの時間を確保して、話はそれから。
ジャグジーに横たわりながらつくづくそう思った。
快活であることがすべての大元。
そう考えれば、優先順位は明らかだった。
マシンエリアへと移動し、筋トレにかかった。
筋肉に負荷をかけるたび、なんだかとても気持ちがいい。
カラダが息を吹き返す。
この実感にまさる心地よさはそうそうない。
そのように陶然として筋トレに励んでいると、遠く向こうに知った顔が現れた。
家内だった。
こっちをみて笑っているから、わたしも笑った。
前夜息子のための料理を仕込み、朝いちばんの便で食料を送り、そのままヨガへと赴き、そして泳いで筋トレ。
なんて活発なのだろう。
手抜きのないその日常に改めて感心させられた。
家内の足跡を振り返ったとき、なるほどと納得がいく。
地道な積み重ねがあってこそのことであり、ここでわたしはまたしても「原因と結果」との言葉に行き着くのだった。
結果を求めたところで、原因がないことには結果は得られない。
昨日の日記に小ウソつきの話を取り上げたが正反対の事例として参照できるだろう。
表面を飾ったところで中身が伴わないから浮きに浮く。
つまり、結果だけを都合よく手中に収めるなどできやしないということである。
わたしがそのとき目にしていたのは、原因の場面に他ならなかった。
先日、代官山で家内はシースルーのトップスと肩と背中を見せて着こなすワンピースを買っていたが、こうした日頃のたゆまぬ精進があってこそ見栄えするのであり、もし鍛錬を欠いたカラダが袖を通せばみっともないことこの上なかっただろう。
夜、ヘルシーな手料理をこしらえて、家内はオンラインで英会話に取り組んだ。
その後、香港の青年に連絡をとった。
福岡の寿司屋で隣り合い、いまも交流が継続している。
その青年がいまエディンバラを訪れているからその機を逃す家内ではなかった。
かなりいいステーキ屋が彼の地にある。
結果そんな耳寄り情報が得られたが、それも原因あってこそ。
家内がそれを体現し、うちではすべてがその法則に貫かれている。