昼に時間が空いたので武庫川を走った。
その頃家内はヨガを終え、月一回のヘッドマッサを受けていた。
想像するだけでこっちまで気持ちがいい。
このあと家内はインディバを受け、これも月一回、鮨たけ屋へと移動する。
黄金の美容コースを経て、最後にご馳走で締め括る。
なんて素晴らしい一日なのだろう。
想像するだけでこっちまで胸がいっぱいになる。
一方、わたしは業務に追われていた。
武庫川を走ったのも、細かなことを整理し戦況を見極めるためであり、だから広義で仕事と言えた。
この日、業務の処理についてお客さんと行き違いがあり、急を要する見直し作業が生じていた。
海千山千、その道に熟達している職員が全力投球していたから解決は時間の問題であったが、随所で意思決定が欠かせず、その度わたしはお客さんに連絡を入れる必要があった。
心配事という域にはないにせよ、気がかりなことがあると視界が曇って世界が暗くなる。
不思議なものである。
心は些細なことに囚われて、オセロの白が裏返るかのように歯止めなく黒へと塗り替わっていくのだった。
このように生きることは、いともたやすく「快」から「苦」へと暗転する。
どうやら「快」と「苦」は併存せず、野球の攻守みたいに、その都度入れ替わっていくもののようである。
だから、「苦」に際しては、持ちこたえねばならない。
悪い流れに更に踏み荒らされないよう心を無にし、なるべくそこに楽しい時間を思い描いて明転を待つ。
引き続き心ここにあらずといった状態で、わたしは鮨たけ屋を訪れた。
まず最初、おいしい寿司でぱっと心に光が差した。
続いて家内の明るさが怒涛のごとく押し寄せてきた。
その明るさに恐れをなして「苦」はいつしか遠くへと消え去っていた。
それで改めて気づいたのだった。
あんな程度のことは「苦」でもなんでもなかった。
我が身にまといつく針小棒大癖は仕事の成就を後押し、そういう意味で必須の要素ではあるものの、得てして無用な影を落として心身に害を成す。
つくづく思うが認知を正すには他者の力が必要不可欠。
持つべきは明るい女房と言えるだろう。