阿波座での業務を終えたとき、家内からメッセージが入った。
どこかで夕飯を食べよう、とのことだった。
うだるような暑さのなかを過ごし、遠出する気は起きずこってりしたものも気が進まない。
それで地元の和食屋で待ち合わせることにした。
さっさと帰宅したいのに電車が断続的に停まってじれったい。
「非常ボタンが押された」と遅延理由がアナウンスされるが、このところやたらと非常ボタンとの言葉を耳にする。
そう言えば「お客様が接触した」とのフレーズをここ最近は耳にしなくなった。
接触が頻発し婉曲の度を強める表現が選択されているのかもしれない。
非常ボタンが押されたとの言葉から真っ先に浮かぶのは、いたずら小僧の姿である。
言葉遣い一つでわたしたちはいともたやすく思考をお門違いな方へと誘導されるのだった。
店に着くと家内が先にビールではじめていた。
わたしは隣に腰掛けノンアルを頼んだ。
ノンアルだからわたしは寡黙で家内の話の聞き役に徹した。
話題は引き続き長野だった。
長野の美しくも雄大な自然が家内の人生観にかなりの影響を及ぼした。
阪急で買い物しそれを見せびらかせるような人がバカに見える。
そんな言葉に家内の中に根付いた価値観の全容が凝縮されていた。
それでわたしは先日新聞で目にした話を語った。
かつて日本には他の追随を許さない威信財が存在していた。
オオツタノハという貝殻でこしらえた装飾品が圧倒的な威光を放ち、縄文時代から古墳時代にかけてざっと6千年間も君臨していたというから、そこらのブランド品で太刀打ちできる話ではない。
が、骨董品としてはさておき、いまオオツタノハの装飾品を身につけてドヤ顔しても誰にも見向きされないだろう。
それに古代ならいざ知らず、情報が行き渡り価値観の多様化した現代においてモノの魔力にひれ伏す者はごく少数に限られる。
モノの命ははかなくて、いまやその神通力が通用する世界はごくごく狭い範囲に限られるのだった。
家内が偏差値60だとすれば、かつて家内を当てこすった人物は30くらいだったのではないだろうか。
それでも負けん気を発揮し60の文脈をなぞって虚実織り交ぜそのように語ってかつ見せて、60に見合うようモノをこれまた虚実織り交ぜ援軍に従えた。
が、実質に根差さない見せかけはすぐにはがれて見透かされ、乖離の度だけがますます際立ち、だからなんとも痛ましいということになるだけだった。
地球沸騰&海洋熱波のあおりを受けて、いい魚が仕入れられなかったとのことで、この日のメニューの主役は肉と松茸だった。
それはそれでとても美味しく家内はたいそう喜んで、ビールに続いては白ワインを頼み、わたしは次もその次もノンアルビールを飲み続けた。
今度の旅の行き先についてあれこれ語り、帰りにりんごあめを2人分買って、家で分けた。
わたしにとってはそれで十分。
お酒は不要で、それが当たり前の日常として馴染んできた。