女房があれこれ手配してホテルを予約してくれていた。
ラウンジ席から淀川花火が鑑賞できる。
そんな夕飯付きのプランだというからプレミア級である。
があいにく日曜の朝一から業務が入っていた。
しかもわたしはかなり大事な任務を担わなければならなかった。
花火をみている場合ではなく、だから家内には諦めてもらうしかなかった。
ああ、申し訳ない。
ジムを終え翌日の準備にかかったとき、花火の打ち上がる音が届き始めた。
西宮の空は風通しよく、芦屋の花火であれ淀川の花火であれ甲子園球場の声援であれ、隔てるものがなにもないから間近に響くのだった。
夜空を飾る花火は視認できないがドーンといった賑やかな音が届き、そのたびに胸が痛んだ。
なかったことにするはずが耳は塞ぎようなく花火のことが蒸し返されて、家内の胸のうちには虚しさの輪が打ち上がり続けていたに違いない。
ここに至ってわたしは自分の小心を悔いた。
時が経てば仕事のことなど記憶の彼方へと消え去るが、もし一緒に花火を見ていればその思い出は永遠のものになったことだろう。
この歳になって一体なぜわたしは事の大小が分からないのだろう。
家内に誘われるままわたしは一緒に花火をみてご飯を食べ、家内が寝静まった頃ひとりで仕事に励んで、朝、ひとりで仕事場へと赴けばよかったのだ。
そうすれば今後どこかで花火を目にしたりその音を耳にしたとき、ホテルのラウンジから見える大輪の花火と家内の満面の笑顔が同時に目に浮かぶことになっていたはずである。
失われた機会は戻らない。
しばらく花火については失語する、そういう状態になりそうだ。