仕事を終え自室にてくつろいだ。
アド街ック天国を見ながら、ぼんやり弛緩する時間が心地いい。
カレーのうまい街が特集されて、出だしが高円寺で次に早稲田そして下北沢へと続いたから釘付けになった。
すべて馴染みある街で、思い入れがあるから目が離せない。
渋谷や銀座や新宿なども登場した。
息子たちの元を訪れ、家内と過ごした数々の場面が随所でよみがえった。
そのように画面に見入りつつ、片手間で書類の分別などしていて長野までの切符の領収書がふと目にとまった。
先日家内が長野を訪れる際に買ったのだろう。
いや、待てよ。
わたしは前もってチケットを買い求め、家内に渡していた。
ということは。
わたしから渡されたチケットのことを忘れ、家内は重複して切符を購入したに違いなかった。
ああ、もったいない。
一体なぜ。
一昔前ならそのように家内に事情を聞くような口をきいたに違いない。
しかし、もはやわたしは若くない。
今更言っても詮無い話をしたところで、無益の上塗りとなるだけであり、第一、言われた方は二重の意味で気分が悪くなるだけだろう。
言われて鬱陶しく、お金も無駄にしてしまった。
言われれば気が塞ぐことになるだけである。
だから、わたしは何も言わない。
何も言わず、それはわたしの分のチケットの領収書なのだと思うことにした。
実際、家内から土産話をたっぷりと聞かされわたしも長野に行ったも同然だった。
家内は一貫してわたしによくしてくれる。
長野のチケットについてもそう捉えるのがもっとも正しい解釈と言えるだろう。