この瞬間のことはいま思い出しても膝から崩れ落ちそうになる。
家内の言葉を冗談だと思いつつ、わたしはリュックを手に取った。
チャックは開いていて、え、まさか、うそ。
ウエストポーチだけが見当たらなかった。
ポーチの中にはパスポートが入っていた。
自分の分だけでなく、わたしは家内の分も預かっていた。
念の為にと今回の旅に携えた現金と予備のクレジットカードも入っていた。
メインのクレジットカードは無事だった。
支払いの際すばやく取り出せるよう右ポケットに忍ばせていたことが幸いした。
iPhoneも首から下げていてこの手にあった。
致命傷ではなかったがかなり深刻な事態であることに変わりはなかった。
わたしは家内の顔を見ることができなかった。
とにかく急いで改札へと向かい駅員に声をかけた。
駅員は気の毒そうにわたしの訴えを一通り聞いてから言った。
警察に行ってもらうしかない。
立っているのが精一杯で、横にいる家内の顔を引き続き見ることができなかった。
わたしは顔を見ぬまま横にいる家内に言った。
まずホテルに戻ろう。
カードを停止するにせよパソコンで操作した方が早く、そしてわたしは愚かにも一縷の望みにすがったのだった。
ウエストポーチをわたしはホテルの部屋に置き忘れたのかもしれなかった。
出かける際、リュックに入れたつもりになっていただけで、そうであればホテルにあるのだからリュックの中にある訳がなかった。
わたしは自身が愚か者であることを強く願った。
パスポートなど一切合切をそのまま部屋に置き忘れるくらいの大馬鹿であることをこのときほど切望したことはなかった。
ああ、そうであればどれだけいいだろう。
往来で拾ったタクシーは渋滞に見舞われ遅々として進まなかった。
わたしたちの苛立ちを察した運転手が助言してくれた。
急いでいるなら地下鉄の方が早い。
わたしたちはタクシーを飛び降り眼の前にあったレスター・スクエア駅から地下鉄に乗り、ピカデリー・サーカスで降りホテルへと駆けた。
一目散に部屋を目指し、中へと入って心当たりに視線を走らせた。
しかし、そこにあってほしいはずのウエストポーチは何をどうしようと見つけることはできなかった。
あ、とそのときになってわたしは思い出した。
AirPodsもポーチに入れていた。
位置情報が得られるからそれが手がかりになる。
すぐさまパソコンで「iPhoneを探す」にアクセスした。
しかし、全く反応がなかった。
ここでわたしは観念した。
ポーチはやはり盗まれたのだった。
そして怖気が走った。
優しい風吹くタワー・ヒル界隈の平穏にそんな物騒な要素など潜む余地なく、実際、わたしは背後に人の気配を感じた瞬間などこれっぽちもなかったし、まして何かがわたしに触れたという感触も一切なかった。
つまり何がどうなったか分からぬうちに肝心要だけを抜き取られていたのだから、これは恐怖以外の何ものでもなかった。
抜き取られたのが命でなくてよかった。
せめてそう思って震えを抑えるしかなかった。
盗られたのは予備のカードであった。
だから限度額も知れていた。
が、カード会社に電話するとき手は震えたままだった。
幸い2枚とも直近の使用履歴はなかった。
そして無事、使用停止にしてもらうことができた。
現金については悔しいけれど諦めがついた。
またがんばって働けばいいだけの話だった。
この学びの価値を思えば、惜しくはない。
そう自身に言い聞かせ気持ちを収めた。
現金や予備のカードなどその趣旨を考えればホテルに置くなり分けて所持するなりするのが当然だった。
一切を一つのポーチに入れ、かつそのポーチをリュックに入れて観光地を歩くなど、わたしの気は緩みに緩んでいたと言うしかなかった。
問題はパスポートだった。
いざとなればここでの滞在を延長し遠隔で仕事すればいい。
そう開き直りつつネットで調べると、まず警察への被害届が先決だとあり日本大使館での手続きには予約が必要だということが分かった。
で、警察へと足を運ぼうとするわたしを家内が制した。
被害届はオンラインで出せる。
家内が調べてそう教えてくれた。
すぐに警察のウェブサイトにアクセスして届け出て、大使館へと向かうことにした。
地下鉄で一駅だったが、まどろっこしいので歩くことにした。
歩いて15分。
「まさか自分が、、、」
そう動揺しつつ異国に身を置くことの心細さは、普通ではなかった。
そして予想通り、いかつい守衛に入口で止められた。
予約はあるのか。
緊急事態である。
ネットで予約し日程を決めてから相談。
そんな余裕があるはずもなかった。
わたしは立ち塞がる守衛を前に、大使館のオフィスに電話をかけた。